2019年12月23日月曜日

寺子屋教育でも理解できる・憲法改正反対論者は真理を愛していないーその3


 前二回の続きである今回は、「憲法九条」に多少とも関係があることについて子供の時からの記憶につて書いてみたい。
 僕が成人になるまでの家庭は貧乏だった。生まれた時が最も貧しく高校を卒業する頃までに徐々に貧乏の程度がましになっていった。貧乏だったのは基本的には父親が家庭に給料を一部しか入れなかったからだ。他人や体制のせいではなかった。その父親は大阪市役所の正規の職員(主に区役所)だった。
 父親は兄と僕に「他人とは政治と宗教の話はするな」という忠告を何度かしたことがあった。人間関係が悪くなった体験が父親にはあったのだろう。僕は、そのことは当時理解していた。そういう父親は、「社会党は嫌い」と言っていた。貧乏人の立場の父親からは、自民党は貧乏者の敵としても(今の僕は必ずしもそうだとは全然思っていない)、社会党は味方の振りをするが実は敵のように見えたらしい。つまり、公務員職組のやっていることを身近で知ってしまうと、自分たち組合幹部の権益を守ることが最重要だということがバレてしまっているのだ。
 僕自身は小学校の高学年には政治のことを新聞などで知るようになっていた。外国については、「ソ連」は不可侵条約を破って、かつ、戦後は北方領土を占領して、時々日本の漁業操業者を拿捕・拘留するので腹が立った。韓国が李承晩ラインを恣意的に設定して、しばしば日本の漁業操業者を拿捕・拘留することも腹が立った。「米国」への反感はあまりなかったが、原爆投下やあちこちの都市で大空襲して、当時から立派な国際法違反と認定されていた「住民の無差別殺戮を」したことは許せなかった。しかし、時の日本政府が戦争を早期に終結して、国民の生命を守らなかったことの方が許せなかった。戦後の米国は太平洋での核実験で、第五福竜丸の漁業操業者に放射線被爆を与えたことも腹が立ったが、韓国の李承晩ラインほどは腹が立ったわけではなかった。
 国内では、自民党は嫌いだった。その理由のひとつには、大手新聞一般の反自民党論調に情報操作されていたと思う。しかし、自民党の政治家には悪相の人が多かったのが、新聞の論調をより信じるようになった根拠の一つだと思う。それと、自民党の政治家はしばしば放言をしたり態度が横柄のように見えた。「人相が悪い」ことや「横柄」なことは人間性に問題があることを確率的に示していると、今でもそのように思う。しかし、「放言」については現在は違う解釈をしている。「放言」の多くは真実に近いことを言っている。むしろ「奇麗ごと」しか言わない連中は「嘘つき」や「真実よりも出世」という場合が多いと知るようになった。最近でも、懲りもせずに、放言で大臣職を放棄せざるを得ない政治家が多いが、「発言内容は真実を語っていることが多い」と思うが、TPOの学習が少ない、そしてリスク管理ができていない政治家だと思う。辞任は仕方がないという面があるとしても、その類の発言くらいで大臣に辞職せよと迫る、現代の日本のポピュリズム的な世相の方に大きい誤りがあると思われる。

 そして、いよいよ憲法九条のことだが、小学校高学年や中学生までに習得した日本語の素養でもってその条文を読んだ時に、「自衛隊は違憲に決まっているじゃあないか」と普通に判断できた。その頃、多くの野党は自衛隊を違憲として政権与党である自民党を攻めまくっていたが、自民党は「条文の語句の解釈はそうではなく云々」として合憲だとしていた。僕が最も自民党が嫌いになった根拠は、実は、「自衛隊合憲」と主張していたからだ。「自民党は嘘つき」だと認定したからだ。
 僕は、現在、保守的識者が「実は憲法九条は少し前に米国主導で作り上げた国連憲章で他国への武力行使を禁止した内容を適用したから云々」から始まり、要するに「ここまでの範囲では武装などは許される云々」という話はよく聞くが、あまり真剣に読み込んだことはない。僕にすれば、古稀を越えた今の僕が普通に読めば、憲法九条の文言のもとでは自衛隊は合憲のはずはない。僕にすれば、「そんな無理と思われるような拡大解釈するのなら、文章とは一体全体何なんだ」と言いたくなる。しかも「公文書」それも最上級の位置にある公文書だ。普通の文章は書いてある通りに読んでこその書類なのである。
 僕は、中学生頃には日本にも軍隊が必要だと思うようになっていた。普通の程度の国ではそれが当たり前であることを知った。とすると、自衛隊が違憲なら憲法の方を書き換えないといけないと思った。自民党は「嘘の読み方を恥ずかしげもなく主張し、必要な憲法改正に本気で進まないから」嫌いだった。非武装中立などと、国益無視の無責任な左翼政党はもっと嫌いだった。日本社会党も日本共産党も米国の核武装は許さないが、ソ連の核武装は米国に対抗するための仕方なしの方便だから許されるとか、我田引水の主張を恥ずかしげもなくしていた。

 その後、大学生になった頃には。沖縄返還、ベトナム戦争や、大学紛争など、生活の中にも政治色が濃厚になってきた。この頃は僕の政治的な立場は曖昧だったが、どちらかというと「ブレない」との印象を受けた日本共産党に数年間は興味を持つようになった。日本の自主独立路線をうたい文句にしていることにも社会党よりはましだと思った。その下部学生組織の「民青」は学園内では非常に常識的なメッセージを流していた。上部組織の日本共産党の当時の戦略上の方針だったのだろう。当時の社会党(一寸前の民主党の一部の派閥につながっている)の下部組織として親和性のある組織の「中核」「革マル」「社学同」(それぞれのヘルメットは、白(中核の文字)・白(Z字)・赤(社学同の文字))やその他の反日共系の過激武闘学生集団セクトと「民青」とは犬猿の仲であった。最近でも、旧民主党の代表格がいまだに「革マル」派からの政治資金を受けていることが明らかになっている。当時の日本社会党左派は日本共産党よりも左で、それこそ「極左」であったことを庶民は知っておく必要があると思っていた。あの頃は反日共系の学生運動が席捲しており、全国の各大学の学園の中で組織横断的に成立していた「全学共闘会議」という組織のほとんどは反日共系のセクトが影響力を持っていた。
 僕は下宿で「朝日新聞」を購読し(自宅では「毎日新聞」だったが、インテリは「朝日新聞」だと思ってしまった)、時々「朝日ジャーナル」を買って読んだ。それらは概ねは反日共系の学生運動をフォローしていた。
 ところが、「トロツキスト」といって「民青」が口撃していた反日共系の学生運動がその後の日本の一般状況の中で薄れ出した存在感を求めて先鋭化していった。そして、ついには「社学同」が先鋭化した「日本赤軍」という組織は「京浜安保共闘」という社会人の反体制運動組織と「連合赤軍」というのを作って孤立先鋭の極に至り、浅間山荘事件という内部構成員を粛清する凄惨極まる連続殺人事件を引き起こした。ここに至って、流石の朝日新聞も朝日ジャーナルもそれまでの「彼らへの提灯持ち記事」を続けられなくなった。僕はその頃までに「朝日ジャーナル」はそういう記事ばかり書くので買わなくなっていた。「朝日新聞」を読むのもとっくに止めていた。その後、「朝日ジャーナル」は浅間山荘事件後の自己責任の総括をせずにそのうちに廃刊していたのを知った。その後、編集長の一人であった筑紫哲也がテレビのキャスターとしてしたり顔でしゃべっている姿を見ることになった。この頃は、僕は医学の基礎研究の方に関心が向かったりして、政治には関心がないようになった。

 さて、昭和21年に公布して22年に発効した戦後の日本国憲法の「一句一語も改変は許さない」という連中についていえば、僕の判定は、そういう連中にとって「今の日本国憲法は宗教教義と本質的に同等・同質である」。普通の言い方をすれば「日本国憲法はイデオロギー化している」。そういう連中は、宗教教義やイデオロギーで日本国を運営しようと言っているのと同等である。もともと、イデオロギーと宗教教義とはそもそも同等・同質なのである。(参考、https://19a46m.blogspot.com/2018/03/180310.html 意味論的国語辞典「イデオロギー」 この「憲法」のイデオロギー化も東京大学法学部が現在にいたるまで、その総本山に位置している。それ故、日本の法曹界は、特に、弁護士や裁判官に左傾した人物が多いが、検事にも影響が及んでいると思われる。日本弁護士会は明確に左翼集団が牛耳っている(個々のサイレントマジョリティの弁護士は必ずしもそういうことではないと思われる)。結局、政治界でも法曹界でも国のエリートを輩出するべき使命を付与されて開校した東京大学の文系学科による長年月に及ぶ「反日教育」が戦後の長きにわたって行われてきたということは許されないアイロニーだと思うものだ。

 
 日本のような規模の国家で自前の独立した軍隊を有していないということは国家としてリスク管理がなさすぎる。最近でも(数年前か)、「政府は、一体全体どこの国が攻めてくるというのか?」と国会で政府に質問した野党議員がいた。その発言の真意は「どこも攻めてくる国などないじゃあないか。一体どこの国だと言いたいのだ」ということだ。こういう日本の国家のリスクを全く念頭に置かない国会議員こそ日本の国会議員の資格がないということで、大問題にならなければならないはずだ。
 事実としては、当面は、ロシア・韓国・北朝鮮・中共というロシア+東亜三国は日本の領土保全という意味からは潜在的にリスキーな相手である。現実としては、北朝鮮以外の3国は実際に日本との領土問題を抱えている。
 もし、米国が西太平洋への関心を持たなくなったら、現在のような体制の日本は一巻の終わりである。中共は確実に台湾の次に尖閣諸島を占領するし、必ずや沖縄諸島も難癖を付けて支配しようとするだろうと想像する力を持たなくてはならない。沖縄については、日本国内の反日左翼勢力が大挙して沖縄に国内移住し(一部は先日の移民法の成立によって増加する中国人の移民が加わるかもしれない)、先ずは特定の絞り込んだ小規模市町村の議会の勢力を握る。そして、しかる後にその市町村が中共に人権問題などを口実に介入支援を要請する(内部からの要請)、それを受けた形で中共軍が上陸してくる。このシナリオは米国が西太平洋から退いた時点で日本の軍事力が十分な程度でなければ、「ある」と思わなければならない。一旦,占領してしまえば、元に戻すことは極めて困難になる。あの南沙諸島だって、中共の領土だという国際的コンセンサスは全くないのに、今までに傍若無人に建設した中共の軍事施設は余程のことがなければ、元には戻らないのである。これは、見て見ない振りをしてきた米国にその責任があると僕は思っている。
 そして、中共は世界各国に中国系住民の勢力を増やして、ロビー活動や政治家の買収で成功しているのだ。米国やカナダの西海岸で著しい現象だし、オーストラリアでもかなり浸食されている。米国のサンフランシスコで慰安婦像が立ったのも、同じようなことを韓国や中共の反日の移民がサンフランシスコ市長職や議会の勢力を獲得し続けている政治力学の結果なのである。将来、日本国内で伝統的な日本の習慣や制度が条例で否定されるリスクが現実のものとして生じることを恐れなければならない。
 現時点では、最近の川崎市議会で成立した「反ヘイト法案」自身は、見識のない議員が愚かにも成立させたものだと思われるが(別のところでこの問題点について議論したい)、これよりもっとひどい法案が将来生じてくるだろう。そして、最近国会で成立した「アイヌ新法」は国会議員のほぼすべての愚かさ加減に唖然とするものだ(別の機会に述べたい)。これは、将来北海道の一部にアイヌ自治区を作る運動家たちの戦略に大多数の愚かな国会議員がのせられたのである。この運動を既に支援している組織に朝鮮半島と中共の組織が絡んでいることが明となっているらしい。そして、北海道といえば、札幌の繁華街のすすき野の闇を支配する暴力団組織は完全に中共からのマフィアに掌握されているとのことだ。道警であっても、もうその実態を把握できる術がないらしい。道警が日本のヤクザを駆逐した結果、中国マフィアに置き換わってしまって、もっと恐ろしい現実になってしまったらしい。
 既に述べたように、日本に定住した朝鮮半島出身者や中共出身者の集団が「人権問題あり」といって本国に救済を求めた場合には、特に中共からの軍事介入の口実になるのである。これは絵空事では決してない。この時に、日本にある程度以上の固有の軍事力があるかどうかで、絵空事で終わるかそうでないかが決まってしまう。つまり、もう中共は今後数十年から半世紀の長期戦略で日本の領土や制度を削り取ってしまうプランのスイッチをONにしていると思わなくてはならない。特に日本は狙われるべき諸点が多いのだ。先ず地政学的な好位置を占めている。次に盗みたい文化や技術が一杯である。既に中国大陸で乏しくなっている健全な土壌や無限と言うほどの上質の水が中共政府には喉から手が出るほど欲しいのである。そして、馬鹿に思えるくらい穏やかで能天気な民族であることだ。
 相手は、一部の共産党員マフィアの利益のためには自国の国民の民生さえ斟酌せず、自治区として占領している民族に対して国家規模の犯罪を行っている共産党政権であることを忘れてはならない。日本の経団連や中小企業、そして官僚や政治家がこのことを知らないかのような能天気な中共に対する行動や態度は、愚かであるばかりでなく道徳的に許されないことだ。

 以上からの結論として、日本は法律を整備しなければならない。一つには憲法九条であるが、もう一つは情報機関の完備のための立法である。「アイヌ新法」の早々の廃止は当然で、移民を無暗に増やす政策を進めてはならない。ただ、通常兵器をどんどん増やす選択は必ずしも適切ではないと思われる。現在の日本の法体系ではいくら精鋭部隊があってもそれを自由に使えない法律の縛りがあるので、仮想敵国はその足元を見ているから役に立たない。法律をきっちり整備するだけで、現行の軍事力だけで当面は十分余裕があると思われる。今後の日本という国は将来にわたって決して他国への軍事進攻はしないことは国是として確かであると僕は思っている。ただ、侵攻された時には果敢に反撃するべきである。こうしたことは国際的には普通の優良な国家の立ち位置である。
 そうした前提でいえば、日本の経済の余力を維持しつつ実質の防衛力を強化する一石二鳥は上記の「法律整備」の他には「核兵器保有」である。今や、米国がこのオプションを採ることを日本に求めてくるターニングポイントであるという国際的分水嶺の状況だと僕は認識している。このことは、第三次世界大戦が偶然に起こることなしには日本が第二次世界大戦後レジームという現世界の体制から解放される道はないのではないかと僕が認識している絶望的な状況(注、https://19am46.blogspot.com/2019/01/blog-post_31.html 大東亜戦争は誰が誰に謝罪すべきものだったのか?)からすり抜けられるパスが開通するということなのかもしれない。もしそうであれば、日本が良い意味として「普通の国」になることができるという願わしいことだと思うものだ。

2019年12月22日日曜日

寺子屋教育でも理解できる・憲法改正反対論者は真理を愛していないーその2


 前回のブログで護憲論者が初等的な構造的な論理破綻をしていることを(第一)と(第二)に分けて述べた。基本構造的に破綻しているのだから、具体的な条文については触れるまでもないというものだ。それ以上のことはかえって焦点がぼけるので触れない方がよいのかもしれない気もする。しかし、条文の内容も、論理構造のおかしさに負けないくらい「突っ込みどころ満載」と僕には思われる。
 さて、第三としては、「憲法」の「前文」だ。正直なところ、今回初めてじっくり読んだのだが、「前文」は三つの文節からなっている。第一節は「主権在民」を明記している。このことはまあ妥当なところだろう。ただ、この節の中に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」という文章が挿入されている。僕は、ここにGHQの意図が入ってきていると感じる。
「戦争は可及的に避けるように努力しよう」というのであれば、それは非常に重要で立派なメッセージだから。このことは別の独立した節に記するべきだと思う。ところが、実際には「主権在民」がテーマの第一節に混入させて、この前の戦争は大日本帝国政府が民主主義を無視して勝手に起こしたものであり、「日本の政府は民意と違うことをしたがるので、政府は信用するな」という印象操作をしている。結局のところ、これが見事に奏功して、現在の日本がかなり落ち着いた大国になっているにもかかわらず、世界でも稀な「自民党政権は庶民の敵だ」というような政府を敵視するような「けったいな」風潮に満たされているのだ。
この「前文」の第一節の中に書いてある通り、少なくとも戦後の仕組みでは「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」しているのにもかかわらずである。残念ながら僕は今の自民党をほとんど信用していないが、何年かの選挙でその都度多数票獲得政党であることを示しているのだから、次の選挙まではそれなりに政治を信託して委ねなければならない。それが、民主主義なのだ。僕自身は、僕の言う「似非知識人」が主張するのと異なり、「民主主義は欠点が多過ぎる」と思っているが、当面は「仕方がないなあ」と消極的納得をしているものだ。(参考)https://19a46m.blogspot.com/2018/01/180128.html (意味論的国語辞典「民主主義」
 ところが、無自覚的に「民主主義」を礼賛する似非文化人は、正当に選挙された国会における代表者の最大勢力を示す自民党に対してはほぼ常に否定的だ。これは「憲法前文」の精神からすると、日本国民の大衆を馬鹿にしているということだ。日本国民の多くは馬鹿であるということも僕自身は明確には否定しきれないという気がするが、社会秩序上は大衆の民意を消極的であっても認めざるを得ないはずだ。ということで、似非知識人は自己人格の分裂をきたしていることを証明している。
 つい、第一節のことで長い議論をしてしまったが、実は、「憲法前文」の最大の「おかしなところ」は第二節である。この中に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。こんなことを憲法前文に書くなどは独立国ではない。「私たちの国の安全は周りの他の国が真っ当な国であるということに掛けてみるからよろしくお願いします」と吃驚するようなことが書かれてあるのだ。似非文化人の先生に書かされた小学生の作文のレベルだ。これを「とんでも記述」だと思わない風潮だから、戦後の日本の外務省は能天気なのだろう。外務省を代表とする日本の官僚や政治家が「能天気な外交をしている」ことのルーツは公式文書上はこの前文の第二節に存在すると言える。当時の大混乱の日本であったにせよ、日本人の自主的な発意ではこんな「国家の体をなしていない」文章を書き込めるはずがない。それまでの敵国の米国GHQだから書き込めたのだ。
 第二節の後ろの方に「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とある。ここに書かれてある国際社会についての現状認識が実に劣悪だ。当時だけでなく現在においても「国際」政治というものは軍事力・インテリジェンス能力・経済力などの「国力」を拠り所とした力学によってのみ決まっているのだ。基本的には弱肉強食的要素は大いに(多少はテーパリングしているとはいえ)存在しているのだ。
 第一次世界大戦後のパリ講和条約の際に日本が「人種差別撤廃」議案を提出したが、米国ウイルソン大統領の圧力でこれが抹殺された経緯がある。つまり、日本は第二次世界大戦の前から西欧列強と比較して、非常に博愛的な精神を政府自身が持っていたのである。僕は、これに関する複数の歴史事実を読んでいるので、別の機会に広く知ってもらいたいと思っている。これらの事実は、戦後のGHQ指導の教育の中で闇に葬られるように仕組まれた。GHQによる焚書も実行されている。最近、これらの書物の一部が復刻本として世に出だしたので、多くに人たちに読んでもらいたい。「憲法」を作った米国は終戦前後に国際法違反の殺戮や文化的殺戮を日本に対して行ったというのが事実である。「戦犯」は米国の方ではないのか。
繰り返すことになるが、当時の大戦後の混乱の世界だけでなく、現在の世界を俯瞰してみても、国際関係はこの「前文」のような「奇麗ごと」では済まされないことが判るはずのものだ。(参考、https://19a46m.blogspot.com/2018/09/180919.html 意味論的国語辞典「国際」)
端的にいえば、「各国家は自分の国が破滅しないようにありとあらゆる方策を考え、涙ぐましい努力をしてる」ということが事実であり、国という構造がある以上は、このことは何世紀先でも変わらないものだ。この点では、米国も中共も北朝鮮も同列なのだ。同列でないのはある程度の規模以上の国の中では、米国GHQによって見事に洗脳された能天気国家の日本だけらしい。ただ、小さい国のなかでは、その国の元首が私腹を肥やすために国の将来を真剣に考えていないという例は珍しいことではない。北朝鮮にもかなりこういう部分があるといえるのだろう。
 この「前文」の第二節には恥ずかしくも「綺麗ごと」の現状認識の誤謬が書かれているだけにとどまらず、「名誉ある地位をしめたいと思ふ」とある。敗戦直後なのにそんな呑気でご立派なことを言っている場合かと言いたい。真面目に考えるなら、「なるだけ周囲の国々に迷惑を掛けないように、国家の再生に精進します。ただ、多少の援助や協力は有難いです」ということだろう。 「前文」にあるこの文章に、現在までの日本が、敵国条項の国に指定されているにもかかわらず、かつ国連のいろんな下部組織から日本の制度や政策に対して理不尽な判定を受け続けているにもかかわらず、国連への実質上の最多上納金提供国であり続けている「超良い人」のルーツもこの「前文」にあったということだ。いうまでもなく、「超良い人の国」は国益が損なわれ続ける。

 なお、「前文」の第三節については、「突っ込み処」があまりなくて、僕も良かったと思っている。ただ、「政治道徳の法則は、普遍的なものであり」というところは、小学生の作文のレベルの認識であり、「本当にそうなのか?」となる。「真実とは如何に」「現世界はどうなっているのだろう」ということへの本気度が欠如した、軽薄者の作文だ。

2019年12月19日木曜日

寺子屋教育でも理解できる・憲法改正反対論者は真理を愛していないーその1


 日本国憲法はここでは「憲法」と略記しておく。いうまでもなく敗戦後に占領してきた米国のGHQが作った=作らせた日本の憲法のことだ。
 第一に、憲法の条文如何に拘わらず、成立した状況からこの「憲法」のvaridityの拠り所はないということである。今までお互いに「鬼畜」と政府が喧伝しあっていた相手国が作ろうとした「憲法」が自国の利益のことを考慮しているはずがない。この自明なことを敢えて認められない反日思想洗脳者は恥ずかしくないのだろうかと僕はずって呆れている。個々の条文に、現在でも「まあ立派だ」という箇所がいくら沢山あっても、この「憲法」は基本的には直前までの敵国が作成して強制したものであるから、可及的に早期に解消しなければならなかったものだ。自民党もこの頃にはそのように思っていた(今も自民党の主要綱領の一つだ)。自民党が変質した。何故変質したかについても、僕は興味を持っている。

 第二に、あえて、この「憲法」が敗戦時の日本国民の自由な意思で作成したのであった場合を考えてみる(事実ではないが)。「現在の時点でも改憲は許さない」なんて発言している連中は自らの脳みそが伽藍洞であることを破廉恥に表明していることになる。知性がないから恥ずかしくない。本当は第一のことの方がわかりやすいと思われるが、僕はこの第二のことの方が、普遍的認識論として、より重要だと思うものだ。
 ある歴史上の時点で、ある人間やある人間集団が「良し」と判断したことが、その後「永遠に真理である」ということが「蓋然性」としてありうるかどうかについて、いろんな領域のことで思考実験をしたらどうなのか。そして、「永遠に真理だ」という連中はあまりにも「傲慢」であり、謙虚さの欠片もなく、思考放棄している恥ずかしい人間だと断定しうる。「これで仕舞い」だ。
 そもそもこの物理世界や人間社会の「蓋然性」についての「真理というものに興味を持つほどの知性」がないことを自己暴露していることになる。このことは「憲法」の話という限定したことよりももっと大きい「真理とは」という領域の話である。
 「憲法」の話に限定しても、「神風の国が思いもよらない敗戦を食らってしまった」という日本国民が泡を食ってしまった超混乱のタイミングで「良し」とした(一部の日本人の)判断が、その後の半世紀以上の長期にわたって正しくあり続ける「蓋然性」はほぼゼロであろう。その後の社会変化のダイナミズムの中で、正しくなくなってくる部分がどんどん出てくるということだ。ここを皆でしっかり想像して欲しいものだ。
 当時混乱の中国大陸は今や強大な軍事大国の隣国になっているし(経済の方も世界ナンバー2の大国になっているが、「砂上の楼閣」の面がある)、コンピューターやロボットの驚異的な進歩があって、一部の政府によるサイバー攻撃やネット支配による思想への介入が明らかとなってきているが、こういう事態を昭和21年11月の「憲法」公布時(僕の誕生日の3~4カ月後)に想像などできるはずがない。世の中なんてものは二十年先だって思わぬ事態が出現してくるものだ。最近では、その出現には科学のイノベーションの影響が大きい。コンピューターの演算能力には今までも驚かされてきたが、現在のスパーコンピュータでも1万年かかる計算が最近開発中の量子コンピューターでは3分20秒でできたという記事が科学雑誌ネイチャーについ最近掲載された。こうしたイノベーションの発展が、良きにせよ悪きにせよ、社会の様相~本質を大きく変革している最中なのだ。社会が大きく変化してきた中で、それでも、「憲法」の一字一句を死守するという連中は「馬鹿」でななければ、自己のイデオロギー貫徹のためには社会の実態はどうでもよいという「悪人」である。多分、その両方だろうと僕は思っている。
 いままで述べてきたことは、現在の日本の中学までの義務教育レベルでも判る話だ。むしろ勉強の目的も曖昧に高校や大学へいくような現在の土壌が、こういう基本的なことが判らない人間を輩出しているように思われる。江戸時代の寺子屋の方が、世の中の真理を今より教えていたように思うものだ。因みに、僕は、今後のイノベーション社会においても、義務教育は中学校までの方が良いと信じている。このことについては、他のところで議論したいと思っている。
知性に学歴が無関係だということが、この「憲法」問題で証明されている。そもそも、現在までの護憲派の学問的支柱は東京大学法学部なのである。そもそも、学問というのは真理を探究するための方向性をもっているのではあるが、個々の学問は真理を語っていることなど保証されていない。(参考)https://19a46m.blogspot.com/2018/03/180310.html (意味論的国語辞典「イデオロギー」) 
特に、「社会科学」という怪しい領域は良くも悪くも「イデオロギー」という演繹構造が拠り所であるというのが現実だ。その学問が健全に真理に近づく使命や機能を発揮するには現実現象からの帰納という機能(フィードバック機能)がなければならない。護憲論者にはそれが欠如している。
 戦後すぐの東大法学部の中心教授がGHQと関係構造を作ってしまい、その後に免許皆伝された後継教授たちもその教授たちの講義を受ける学生たちもが連綿と「刷り込み授業」を受けているのだ。講義内容を納得しないとその「単位」をもらえないから理解して受け容れようとする心理機転が作動するのだ。この東京大学の文系卒業生たちが戦後の長い期間に日本の官僚・政治家や法曹界の権威となり圧倒的主流になり続けているのだから、日本の政治家・官僚や法律家のかなりの多くが「普通の感覚」で見ると「不思議な反日的行動」をするのは残念ながら仕方がないのである。「刷り込まれている」からその「行動」は良いことだと思っているので、罪悪感などないのだろう。
しかし、これは「裸の王様」現象だ。巷間の国民の多くが、特別の学歴がなくても、「明らかに変だ」と思うことが「変でない」ということは、将に「裸の王様」だ。何が「変」かというと、官僚や政治家が「国益に反することをしている」ことが常態のようになっていることだ。この「変」なことを現実に成立させているものとして、現在の日本において作動している権力~利権における「力学」があるのだろう。その個々の力学の作動する場は、大学のヒエラルキー、官僚のヒエラルキー、政治家の選挙対策と派閥内の力学などがすぐに思いつく。この場の中に企業の経営者の利益が絡んでくる(政治資金など)ということだろう。
最近このブログを読んで頂いている方とお話ができたので、時々追加記事を書かなくてはならないという気持ちになって、以前から書こうと思っていた「憲法」について触れてみたが、今日はここまでで中断しておく。この記事(その1)の続きは、エネルギーが戻った時に書く予定だ。

2019年12月5日木曜日

隣国たちのことより日本がおかしい:中共に利他行為をしてはいけない

第一次世界大戦後から米国は最大の強国になってきていたが、そのまま、米国だけが超大国であり続けている。「もう米国も弱体化してきている」という諸点は指摘され始めているが、今後もかなりの長期間にわたって超大国の立場を維持するだろう。このブログの15・16.17号で、日本・中共・韓国の3国が自らの実力を過信して米国からの離反や反撃をするという愚行をしたのが大問題であったということを述べた。なお、第二次世界大戦後の日本は、とにかくこの超大国との同盟国の立場であるが、このことは、当面の生き残りにとって非常に有利な点であり続けていると思うべきだろう。
最近の私のような保守的な立場の人たちのユーチューブ・チャンネルでは、米国にたてついた中共の経済が破綻しそうだとか、GSOMIAの件で米国にたてついた韓国はもう破滅だろうという趣旨の記事が溢れている。そして、「留飲を下げた」とか、「ざまあみろ」という感じのものが多い。それらの事実認識において、僕も多少は同感のことは少なくない。しかし、大切なことは、「この世界情勢の時に日本はどういう対応をすべきか」の方に精神のベクトルを向けることであるべきだ。しかし、それが疎かになっているように思われる。
ブログの15号で述べたように、日本は戦前だけでなく戦後の経済戦争(頑張ったら、そうなってしまっていた)においても、米国に自国を脅かす国であるとの認識を持たれてしまって、我が国にとっては実に理不尽な経済的要求を突き付けられた。それを境に日本は生産・産業体制がズタズタにされて、米国だけでなく近隣の中共・韓国・台湾に種々の生産業種でトップの立場を追われることになって久しいのだ。このアジアの三国には「漁夫の利の立場」と「生産ノウハウを日本から容易に入手できることができた」という二点によって経済力を一気に上げることができた。
日本が、図らずも米国とモロに「経済戦争」をしてしまったという失敗だけでなく、国を挙げて「隣国への技術流出を防止する」という努力を怠ったことこそ、「過去の教訓」ではないのかと言いたい。当時は、吾が政府はこういう国益にまったく能天気であり、個々の企業も自企業の刹那の利潤確保しか念頭になく、国益や従業員への考慮が結果的に欠如していた。

このことは、今の日本の状況とまさに同じではないか! この1~2年の間にトランプ政権の米国は覇権を目指すことを明言してしまった全体主義国家の習近平政権の中共に対して「最後の覇権争い」をしなければならなくなったという決意を世界に対して宣言したのである。この方針はもうトランプの個人的な方針ではあらずして、与党・共和党もも野党・民主党もこの点においては一致し出したのである。それまで、もともと米国とは距離を置いていて中共と利益共存したいと目していた欧州諸国も、最近は中共と距離を置く姿勢を明らかにしてきたばかりの時点である。しかるに、日米同盟関係にあるにもかかわらす、日本においてはなおも中共への企業進出や合弁事業を発表したりしている。来年には習近平を国賓として迎えようとしている。米国はウイグル民族への中共政府の弾圧に対して遅ればせながら非難を強化し出して、また香港への北京政府の弾圧にも非難を明らかにしているこの時点にである。
一応は盟友ともされている安倍首相とトランプ大統領との間にどういう実際の意見交換があるのかは誰にもわからないことだが、たとえ僕が現安部政権に対して斟酌をするとしても、日本の現政権や日本企業の全体主義国家を露わにしている中共への利他行為は、「世界に誤ったメッセージを与えるに十分である」と非難しなくてはならない。そして、日本も現時点の唯一の超大国の米国から手厳しいしっぺ返しをくらう覚悟をせねばならないという馬鹿げた状況なのだと警告しなければならない。

ところで、数年前から田中角栄元首相を評価した単行本が数編出回っている。政権当時も「今太閤」としてもてはやされたが、ロッキード疑獄で有罪のまま亡くなられた。人心扱いの妙とか強大な派閥権力の座に上り詰めたストーリー性について考えると、僕のような凡人には及びもつかない「立派な人だ」と思う部分もないことはない。しかし、重要なのは、内政もさることながら、「国際政治の中での日本の首相として何を考えてどう行動したのか」であるべきだろう。国際政治家としての資質があったとは僕には思えない。
事実として彼はロッキード事件で日本の裁判所にて収賄罪で有罪を受けた。これは米国の議会のなかで資料が何故か急に表に出てきたものであった。この裁判事件は米政権というトラの尾を田中角栄が踏んだ結果、米国に仕掛けられたのだと言われている。それは、米中国交回復よりもわずかでも早く日本の独自外交として中共と率先して経済を中心とした共存関係を結ぼうとしたためだろうと思われる。後述するニクソンショックに対する意趣返しだったのだろうか。戦後の憲法のもとの日本国は「一人前」ではなく、米国の庇護を必要としているので、それは身の程知らずだったのだ。米中に対する「両天秤」、あるいは韓国お得意の「事大主義」の臭いがするともいえるのかもしれない。
ただ、この頃は米国の方も中共政権を認知することを明らかにしていた(佐藤栄作政権の時に、国連の場で米国や日本の反対派が少数派となり中共が正式承認されたのだが、米国はその後速やかに方針転換をして、日本の頭越しにニクソン大統領と毛沢東が友好会談を行ったニクソンショックということがあった。当時の米国は泥沼のベトナム戦争をもう止めたかったし、ソ連との勢力争いの最中でもあり、まだ国力の今ほどでない中共と近寄るメリットを考えだしていた。日本嫌いのキッシンジャーという共和党政権の黒幕が絵を描いていたと言われている)。
そのような当時の状況と比較した場合、現安倍政権が米国の意向を忖度せずに習近平政権と近づくことの方が田中政権の場合よりも米国からしっぺ返しを食らう蓋然性が高いという理屈になる。日本の中共への進出企業に対してもその後米国からの無法な制裁を受けることになるかもしれない。

さらにその後、天安門事件を契機に西欧諸国がこぞって中共への制裁を続けていた時に、日本が率先して中共に近づき、海部俊樹首相が北京訪問し、次の宮沢内閣の時に天皇陛下訪中まで断行して、中共を国際社会へ復帰させる「露払い」の役割を行った。これらの政権は田中角栄が作り上げた大派閥の傀儡的なもので、田中角栄の親中遺産なのだと思われる。そして、この遺産はいまだに自民党員なおみならず野党人脈や官僚に引き継がれているのである。この日本の親中行動が全体主義国家であることを隠せなくなった中共の軍事経済発展の再出発を加速してきたのだ。
安倍政権の日本は、またもや、全体主義国家であることを隠そうともしなくなった中共の窮地を救う行為をしようとしている。
この中共という国だけでなく、日本以外のどの国も外交政策の方程式の解は「その時点での因数そのもの」で決めるのであって、過去の「温情のお返し」や過去の「恨みに対する仕返し」では実はほとんど決まっておらないのが大まかな事実なのだ。どれほど、恩を売ろうとしても、それが将来の投資になるものではない。韓国のような国は例外的にひどい国だが、このことは大多数の国においてそうなのだ。
日本の外務省や外交政治家は日本国内の巷間では普通に成立しているこういう「日本式の節度ある態度をすべきだ」というイデオロギーから決別できない程の単純で軽薄な精神構造だと思われる。「似非文化人」・「お花畑的良い人」というキーワードに集約されるような愚かな考えが今の日本国内のあらゆる社会現象において席捲している。これらは個人だけの話なら微笑ましいものだが、個人を越えた人間同士のイッシューになってくると正しくもない。それでも、日本人の間での付き合いの範囲では実害が少なくて微笑ましいことである場合が多いのかもしれないが、国際関係ともなれば、こういうお花畑的感覚は自らにとって有害であるだけでなく、他者にとっても害悪のもとになる。そして、かえって、のっぴきならない紛争へと転化してしまうリスクを僕はみている。戦後の日韓関係が将にそのことを証明している。
今述べたことがもし的を得ていないとしたら(つまり、政治家や官僚は、そこまで馬鹿ではなかろうという場合は)、親中の彼らは中国進出志向の日本企業からの金銭面や選挙上での見返りを受けているのか、あるいは中共の情報機関からそういう不正構造の秘密を握られてしまっているのか、さらにハニートラップにかかってしまっているのか、ということが本当に疑われる。
橋本龍太郎元首相も中共のハニートラップにかかったといわれている。日本のマスコミが大きいスキャンダルにしなかった理由は、相手が左翼マスコミの好きな中共だったからなのかと思ってしまう。中国現地企業で働く日本人の職員へのハニートラップ攻勢は稀な話ではないと言われている。なお、中共が握ってしまった政治家・官僚や企業経営者・従業員のスキャンダル的な事案は「世間にばれた」時点で、当該人物は役立たずになるらしい。「ばらすぞ」と恫喝を掛けている時に使い勝手があるということだ。