2019年12月22日日曜日

寺子屋教育でも理解できる・憲法改正反対論者は真理を愛していないーその2


 前回のブログで護憲論者が初等的な構造的な論理破綻をしていることを(第一)と(第二)に分けて述べた。基本構造的に破綻しているのだから、具体的な条文については触れるまでもないというものだ。それ以上のことはかえって焦点がぼけるので触れない方がよいのかもしれない気もする。しかし、条文の内容も、論理構造のおかしさに負けないくらい「突っ込みどころ満載」と僕には思われる。
 さて、第三としては、「憲法」の「前文」だ。正直なところ、今回初めてじっくり読んだのだが、「前文」は三つの文節からなっている。第一節は「主権在民」を明記している。このことはまあ妥当なところだろう。ただ、この節の中に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」という文章が挿入されている。僕は、ここにGHQの意図が入ってきていると感じる。
「戦争は可及的に避けるように努力しよう」というのであれば、それは非常に重要で立派なメッセージだから。このことは別の独立した節に記するべきだと思う。ところが、実際には「主権在民」がテーマの第一節に混入させて、この前の戦争は大日本帝国政府が民主主義を無視して勝手に起こしたものであり、「日本の政府は民意と違うことをしたがるので、政府は信用するな」という印象操作をしている。結局のところ、これが見事に奏功して、現在の日本がかなり落ち着いた大国になっているにもかかわらず、世界でも稀な「自民党政権は庶民の敵だ」というような政府を敵視するような「けったいな」風潮に満たされているのだ。
この「前文」の第一節の中に書いてある通り、少なくとも戦後の仕組みでは「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」しているのにもかかわらずである。残念ながら僕は今の自民党をほとんど信用していないが、何年かの選挙でその都度多数票獲得政党であることを示しているのだから、次の選挙まではそれなりに政治を信託して委ねなければならない。それが、民主主義なのだ。僕自身は、僕の言う「似非知識人」が主張するのと異なり、「民主主義は欠点が多過ぎる」と思っているが、当面は「仕方がないなあ」と消極的納得をしているものだ。(参考)https://19a46m.blogspot.com/2018/01/180128.html (意味論的国語辞典「民主主義」
 ところが、無自覚的に「民主主義」を礼賛する似非文化人は、正当に選挙された国会における代表者の最大勢力を示す自民党に対してはほぼ常に否定的だ。これは「憲法前文」の精神からすると、日本国民の大衆を馬鹿にしているということだ。日本国民の多くは馬鹿であるということも僕自身は明確には否定しきれないという気がするが、社会秩序上は大衆の民意を消極的であっても認めざるを得ないはずだ。ということで、似非知識人は自己人格の分裂をきたしていることを証明している。
 つい、第一節のことで長い議論をしてしまったが、実は、「憲法前文」の最大の「おかしなところ」は第二節である。この中に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。こんなことを憲法前文に書くなどは独立国ではない。「私たちの国の安全は周りの他の国が真っ当な国であるということに掛けてみるからよろしくお願いします」と吃驚するようなことが書かれてあるのだ。似非文化人の先生に書かされた小学生の作文のレベルだ。これを「とんでも記述」だと思わない風潮だから、戦後の日本の外務省は能天気なのだろう。外務省を代表とする日本の官僚や政治家が「能天気な外交をしている」ことのルーツは公式文書上はこの前文の第二節に存在すると言える。当時の大混乱の日本であったにせよ、日本人の自主的な発意ではこんな「国家の体をなしていない」文章を書き込めるはずがない。それまでの敵国の米国GHQだから書き込めたのだ。
 第二節の後ろの方に「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とある。ここに書かれてある国際社会についての現状認識が実に劣悪だ。当時だけでなく現在においても「国際」政治というものは軍事力・インテリジェンス能力・経済力などの「国力」を拠り所とした力学によってのみ決まっているのだ。基本的には弱肉強食的要素は大いに(多少はテーパリングしているとはいえ)存在しているのだ。
 第一次世界大戦後のパリ講和条約の際に日本が「人種差別撤廃」議案を提出したが、米国ウイルソン大統領の圧力でこれが抹殺された経緯がある。つまり、日本は第二次世界大戦の前から西欧列強と比較して、非常に博愛的な精神を政府自身が持っていたのである。僕は、これに関する複数の歴史事実を読んでいるので、別の機会に広く知ってもらいたいと思っている。これらの事実は、戦後のGHQ指導の教育の中で闇に葬られるように仕組まれた。GHQによる焚書も実行されている。最近、これらの書物の一部が復刻本として世に出だしたので、多くに人たちに読んでもらいたい。「憲法」を作った米国は終戦前後に国際法違反の殺戮や文化的殺戮を日本に対して行ったというのが事実である。「戦犯」は米国の方ではないのか。
繰り返すことになるが、当時の大戦後の混乱の世界だけでなく、現在の世界を俯瞰してみても、国際関係はこの「前文」のような「奇麗ごと」では済まされないことが判るはずのものだ。(参考、https://19a46m.blogspot.com/2018/09/180919.html 意味論的国語辞典「国際」)
端的にいえば、「各国家は自分の国が破滅しないようにありとあらゆる方策を考え、涙ぐましい努力をしてる」ということが事実であり、国という構造がある以上は、このことは何世紀先でも変わらないものだ。この点では、米国も中共も北朝鮮も同列なのだ。同列でないのはある程度の規模以上の国の中では、米国GHQによって見事に洗脳された能天気国家の日本だけらしい。ただ、小さい国のなかでは、その国の元首が私腹を肥やすために国の将来を真剣に考えていないという例は珍しいことではない。北朝鮮にもかなりこういう部分があるといえるのだろう。
 この「前文」の第二節には恥ずかしくも「綺麗ごと」の現状認識の誤謬が書かれているだけにとどまらず、「名誉ある地位をしめたいと思ふ」とある。敗戦直後なのにそんな呑気でご立派なことを言っている場合かと言いたい。真面目に考えるなら、「なるだけ周囲の国々に迷惑を掛けないように、国家の再生に精進します。ただ、多少の援助や協力は有難いです」ということだろう。 「前文」にあるこの文章に、現在までの日本が、敵国条項の国に指定されているにもかかわらず、かつ国連のいろんな下部組織から日本の制度や政策に対して理不尽な判定を受け続けているにもかかわらず、国連への実質上の最多上納金提供国であり続けている「超良い人」のルーツもこの「前文」にあったということだ。いうまでもなく、「超良い人の国」は国益が損なわれ続ける。

 なお、「前文」の第三節については、「突っ込み処」があまりなくて、僕も良かったと思っている。ただ、「政治道徳の法則は、普遍的なものであり」というところは、小学生の作文のレベルの認識であり、「本当にそうなのか?」となる。「真実とは如何に」「現世界はどうなっているのだろう」ということへの本気度が欠如した、軽薄者の作文だ。

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