2019年5月15日水曜日

憲法に「高校の授業料免除」を書き入れようとする愚かさ


授業料免除を憲法に書き入れたいと(日本維新): 僕は、多くのことで、大阪維新の会や日本維新の会に期待しているものだ。その「日本維新」は、今後の憲法改正の際に、公立だけでなく私立高校の授業費の免除を書き入れたいと主張していると聞いた。
「憲法」は最小限度の理念あるいはそれに不即不離と思われる若干の具体的なものに限っていなければならないと思う。そうでないと、後世の国民が不都合な縛りを受けるリスクが問題になるからだ。もちろん、不都合になれば、その都度、憲法を改正すればよい。日本以外は頻繁に憲法を改正しているのが現状だ。ところが、日本ではそうではないので厄介なのだ。
「私立高校の授業料のような具体的過ぎるような案件を憲法に書こうとするなど、いわゆる左翼の似非文化人やイデオロギストのような真似をしてはいけないと思う。「日本維新」はもっと、地に足をつけている政党ではなかったのかな。既に国民が教育を受ける権利については憲法に明記されている。公平に受けるべきという理念が入っているのであろう。しかし、同一的な意味での平等ということを一般法律であってもアプリオリに正しいものと決めつけてはならない。その時々でのその国の経済状態や生活状態にあった対応が必要なのだ。
「教育を受ける権利」→「授業料の免除」の筋道は判りやすい図ではあるが、そんなことは義務教育であっても論理上の証明ではない(権利=無料ではない事例は多過ぎる)。しかも、高校はもう義務教育でもないのだ。因みに、高校を義務教育化する考えに僕は若い時から反対だ。早くから職人や農業という技術者の訓練を受ける人たちも素晴らしいと思う。その人たちが途中で必要性を見つけた場合に、その時点で学校にも行くというようなフレキシブルな社会を行政が作ることこそ大切だと思う。
公立高校の授業料も別にあまねく免除にすることがよいとも僕は思っていない。貧困でないものからは授業料を徴収する正義もあるのだ。あまねく無料というのは浪費性向と無料で当たり前という権利意識という悪影響を精神に与えるものだ。本当に経済的に困る人々には、別の個別的(奨学金・補助金など)対応をする方が良いと思うものだ。受給することを恥ずかしいと思う必要はない。それは贅沢とも言いうるものだ。一方、受給を当然と思う精神や、あまねく授業料免除が当たり前だという精神の方が恥ずかしい。誰の資金か?国民の税金なのだ。
いろいろマスコミが好きなことを流しているが、今の日本の世相を概観すると、今の日本は、実は、やはり金満の国だと感じる。この精神に慣れていく我が国の将来に立派な未来はあるのだろうか。どの国でもどの時代でもそれなりの裕福と貧乏が混在するが、現在の日本はかつてない程の世界の中でも非常に貧富の差の小さい国であることは数多くの事実が示している。特に極貧が少ないと思われる。これ以上、「贅沢」を張っては罰が当たるのではないか。
その現状を否定して、なお「人間みな全く平等に扱われる権利がある」と声高にいっているのは主に、社会主義イデオロギーの面々であり、または西欧有力国が主導する国連などの機関の面々であるが、そのどちらもが、その実現してきた社会は日本と違って、貧富の差が激しいことが避けられない構造なのであったし、今後もそうなのである。ソ連邦・北朝鮮・中共をみたら社会主義という思想は「全体主義国家」にならざるを得ないことを示している。そうすると極貧が数多く生まれてくる。これは誰にでも判るはずの歴史の教訓である。
日本の良いところを既に世界に示しているのではないのか?

2019年5月8日水曜日

時効制度: これについても法曹界は工夫というものを考えてほしい


 前の項で「死刑廃止論」と「憲法9条」における剛直性の問題について議論したが、
書き終わってから、「時効」という法律上の制度についても同じような問題点があることに考えが及んだ。
 専門家のサイトの記述には「ひとたび時効が成立すると、警察はその犯人を逮捕できなくなってしまって、時効が成立した事件については、警察は事件を捜査した資料を被疑者不詳として検察官に書類送検して事件は完結してしまいます」と書いてある。
現実の場合でも、ドラマの場合でも、この制度によって多くの人が腑に落ちない気持ちにしばしばなると思われるが、この制度が存在する理由についても、このサイトに書いてある。要するに、時間が経ちすぎると記憶も曖昧になり証拠も集まりにくくなり、どこかで捜査の打ち切りをしないと捜査員の人員などの労作に大きい浪費が考えられるからだそうだ。
それは、予め想像できた理由であり、捜査についての不都合についても納得するところである。問題は、こんな剛直的な打ち切り以外の方便を何故考えられないのだろう。想像力の欠如だと思う。
僕は、前号と同じような議論で、おかしな結論だと思う。「公訴時効」など決めなくても、ある時間が経てば「積極的捜査は終了」だけにしておけばよいのだ。「事件を捜査した資料を被疑者不詳として検察官に書類送検して事件は完結してしまいます」とあるが、「一応、完結扱いに準じる」にしておけばよいのだ。
たまたま何かの拍子に証拠が出てきたり、容疑者が確保できる場合もあるのだ。
2010年に、殺人事件における25年の「公訴時効」については廃止されたということだが、「もっともっと早くそうすべきだったじゃあないか」と言いたいものだ。日本の法律は一旦条文ができると、剛直化してしまうので問題が多い(しかも、この条文の内容自体が剛直的である)。日本人は一旦できた「条文」を一神教の聖書の文言のように、或いは、日本人的なお上(おかみ)の宣言のように無批判的に心の中まで受け入れてしまう性癖があるように思う。ただ、この「時効」については国民の多くは異議を唱えていたと思うので、この件は法曹界の専門家の無責任性に一番の問題があると僕は思う。
殺人事件以外についても、全部のカテゴリーでとまではいわなくても、検討の余地があるのではないかと思う。