2019年12月19日木曜日

寺子屋教育でも理解できる・憲法改正反対論者は真理を愛していないーその1


 日本国憲法はここでは「憲法」と略記しておく。いうまでもなく敗戦後に占領してきた米国のGHQが作った=作らせた日本の憲法のことだ。
 第一に、憲法の条文如何に拘わらず、成立した状況からこの「憲法」のvaridityの拠り所はないということである。今までお互いに「鬼畜」と政府が喧伝しあっていた相手国が作ろうとした「憲法」が自国の利益のことを考慮しているはずがない。この自明なことを敢えて認められない反日思想洗脳者は恥ずかしくないのだろうかと僕はずって呆れている。個々の条文に、現在でも「まあ立派だ」という箇所がいくら沢山あっても、この「憲法」は基本的には直前までの敵国が作成して強制したものであるから、可及的に早期に解消しなければならなかったものだ。自民党もこの頃にはそのように思っていた(今も自民党の主要綱領の一つだ)。自民党が変質した。何故変質したかについても、僕は興味を持っている。

 第二に、あえて、この「憲法」が敗戦時の日本国民の自由な意思で作成したのであった場合を考えてみる(事実ではないが)。「現在の時点でも改憲は許さない」なんて発言している連中は自らの脳みそが伽藍洞であることを破廉恥に表明していることになる。知性がないから恥ずかしくない。本当は第一のことの方がわかりやすいと思われるが、僕はこの第二のことの方が、普遍的認識論として、より重要だと思うものだ。
 ある歴史上の時点で、ある人間やある人間集団が「良し」と判断したことが、その後「永遠に真理である」ということが「蓋然性」としてありうるかどうかについて、いろんな領域のことで思考実験をしたらどうなのか。そして、「永遠に真理だ」という連中はあまりにも「傲慢」であり、謙虚さの欠片もなく、思考放棄している恥ずかしい人間だと断定しうる。「これで仕舞い」だ。
 そもそもこの物理世界や人間社会の「蓋然性」についての「真理というものに興味を持つほどの知性」がないことを自己暴露していることになる。このことは「憲法」の話という限定したことよりももっと大きい「真理とは」という領域の話である。
 「憲法」の話に限定しても、「神風の国が思いもよらない敗戦を食らってしまった」という日本国民が泡を食ってしまった超混乱のタイミングで「良し」とした(一部の日本人の)判断が、その後の半世紀以上の長期にわたって正しくあり続ける「蓋然性」はほぼゼロであろう。その後の社会変化のダイナミズムの中で、正しくなくなってくる部分がどんどん出てくるということだ。ここを皆でしっかり想像して欲しいものだ。
 当時混乱の中国大陸は今や強大な軍事大国の隣国になっているし(経済の方も世界ナンバー2の大国になっているが、「砂上の楼閣」の面がある)、コンピューターやロボットの驚異的な進歩があって、一部の政府によるサイバー攻撃やネット支配による思想への介入が明らかとなってきているが、こういう事態を昭和21年11月の「憲法」公布時(僕の誕生日の3~4カ月後)に想像などできるはずがない。世の中なんてものは二十年先だって思わぬ事態が出現してくるものだ。最近では、その出現には科学のイノベーションの影響が大きい。コンピューターの演算能力には今までも驚かされてきたが、現在のスパーコンピュータでも1万年かかる計算が最近開発中の量子コンピューターでは3分20秒でできたという記事が科学雑誌ネイチャーについ最近掲載された。こうしたイノベーションの発展が、良きにせよ悪きにせよ、社会の様相~本質を大きく変革している最中なのだ。社会が大きく変化してきた中で、それでも、「憲法」の一字一句を死守するという連中は「馬鹿」でななければ、自己のイデオロギー貫徹のためには社会の実態はどうでもよいという「悪人」である。多分、その両方だろうと僕は思っている。
 いままで述べてきたことは、現在の日本の中学までの義務教育レベルでも判る話だ。むしろ勉強の目的も曖昧に高校や大学へいくような現在の土壌が、こういう基本的なことが判らない人間を輩出しているように思われる。江戸時代の寺子屋の方が、世の中の真理を今より教えていたように思うものだ。因みに、僕は、今後のイノベーション社会においても、義務教育は中学校までの方が良いと信じている。このことについては、他のところで議論したいと思っている。
知性に学歴が無関係だということが、この「憲法」問題で証明されている。そもそも、現在までの護憲派の学問的支柱は東京大学法学部なのである。そもそも、学問というのは真理を探究するための方向性をもっているのではあるが、個々の学問は真理を語っていることなど保証されていない。(参考)https://19a46m.blogspot.com/2018/03/180310.html (意味論的国語辞典「イデオロギー」) 
特に、「社会科学」という怪しい領域は良くも悪くも「イデオロギー」という演繹構造が拠り所であるというのが現実だ。その学問が健全に真理に近づく使命や機能を発揮するには現実現象からの帰納という機能(フィードバック機能)がなければならない。護憲論者にはそれが欠如している。
 戦後すぐの東大法学部の中心教授がGHQと関係構造を作ってしまい、その後に免許皆伝された後継教授たちもその教授たちの講義を受ける学生たちもが連綿と「刷り込み授業」を受けているのだ。講義内容を納得しないとその「単位」をもらえないから理解して受け容れようとする心理機転が作動するのだ。この東京大学の文系卒業生たちが戦後の長い期間に日本の官僚・政治家や法曹界の権威となり圧倒的主流になり続けているのだから、日本の政治家・官僚や法律家のかなりの多くが「普通の感覚」で見ると「不思議な反日的行動」をするのは残念ながら仕方がないのである。「刷り込まれている」からその「行動」は良いことだと思っているので、罪悪感などないのだろう。
しかし、これは「裸の王様」現象だ。巷間の国民の多くが、特別の学歴がなくても、「明らかに変だ」と思うことが「変でない」ということは、将に「裸の王様」だ。何が「変」かというと、官僚や政治家が「国益に反することをしている」ことが常態のようになっていることだ。この「変」なことを現実に成立させているものとして、現在の日本において作動している権力~利権における「力学」があるのだろう。その個々の力学の作動する場は、大学のヒエラルキー、官僚のヒエラルキー、政治家の選挙対策と派閥内の力学などがすぐに思いつく。この場の中に企業の経営者の利益が絡んでくる(政治資金など)ということだろう。
最近このブログを読んで頂いている方とお話ができたので、時々追加記事を書かなくてはならないという気持ちになって、以前から書こうと思っていた「憲法」について触れてみたが、今日はここまでで中断しておく。この記事(その1)の続きは、エネルギーが戻った時に書く予定だ。

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