2020年3月3日火曜日

新型コロナで国民はごく普通に過ごしてよい

 新型コロナウイルス感染症(新型風邪)への日本政府の対応の中で、早期に中国全般からの人間の入国制限をしていないことが問題視されている。しなかったのは日本を含むアジアの3国だけであるらしい。現在もそのままである。ところが、政府を攻撃することが仕事のようなマスコミも、こと中国が困るようなことは言いたくないらしく、この政府の不作為については左翼野党もだがマスコミも攻撃をしないのだ。おかしな話だ。僕は、この政府の不作為は、「作為的」なもので、極めて遺憾であると言いたい。
 この「中国の立場を守ってあげたい」という作為の理由を考えると、企業をはじめ国を挙げての経済の中国への依存構造という誤りを犯していることと、数十年来の日本の政治家への献金まがいの企てが連綿と行われており、しばしばハニートラップの企ても併存していると思われる。気が付いたらこれに引っ掛かっている政治家は物凄く多いのではないかと想像される。最近,小額の賄賂の件で検察が動いている政治家は大物ではない。水面下の数多くの大物政治家への恫喝のために、中国側がその資料を日本の当局に提供したことが推定されるほど怪しい話だ。

 話を戻すと、今度の感染症に対する対応について、実は誰も「こうするのが一番よろしい」と言える専門家がどの専門領域にもいないのが現実だと判ったということだ。その理由は、専門家がだらしないのではなくて、誰にも今後のことが確実に予測できることが出来ないような事象であるからだ。決定論では対応できないのである。だから、今回の「とにかく春休みを3週間の繰り上げにするような学級閉鎖の決定をしたのは、とりあえず一つの試みをしたことを評価するのでよいのではないかと思う。
 ただ、日本の官僚や政治家は危機管理能力がないのが定番のようである。官僚がアドバイスを求める専門家が適材適所ではないのだ。官僚は自分のヒエラルキーを侵されるようなアドバイザーは招集しないように思われる。日本の官僚は現場や実地に明るい人材を集めていないように思われる。

 僕自身は、しかしながら、ずっとの間一寸違うことを考えてきた。僕は最近のブログでもそれなりに触れてきたのだが、日本の民衆の頭の切り替え作業の方が意味が大きいのだと思う。どの対策がベストか判らない一方で、民衆のものの考え方が地に足がついていないように思うからだ。専門家が断片的に話す内容をかじり聞いて、物事が判ったと思ってしまう人たちが多い。専門家だって、全部判っているのではないはずだ。世の中は判らないことで満ち溢れている。
 これまでのブログでも述べたように、今度の「新型風邪」は、冷静に考えると、感染力も重症率も大雑把にいえばインフルエンザ並みである。日本ではインフルエンザに毎年少なくとも1千万人が感染して、関連死亡者数が1万人~数千人である。これで誰もパニックになってはいない。周囲に流行があったら、自己判断で「マスクくらいはしておこうか」だけではないか。
 これについては、タミフルなどの治療薬があるから安心があるという部分も確かにあると思われるが、パニックにならないのは、実は、そうではないはずだ。タミフルは2001年に日本で保険適応になっている。じゃあ、それ以前は日本は毎季節にインフルエンザでパニクッていたかというとそうでもなかった。僕は1991年に開業医をスタートして二十数年働いたが、そんことはなかった。民衆は年中行事のようなインフルエンザの流行を自然の営みに対応するようにいわば淡々と過ごしてきたのではなかったか。
 それでは、インフルエンザ感染とどこが違うのかと言えば、「新型風邪」の場合は、新型ウイルスでありその疾患パターンや感染パターンのことを「まだ誰も知らない」という点だけが違うのだ。しかし、日本においては感染力と死亡率を冷静に推定するとせいぜいインフルエンザと同程度でしかないのだ。そして、日本においては今年の1月に最初の感染者が同定されてからもう今年の3月まで経過したのである。結局、1年間の区切りをもって集計したとすると、「新型風邪」はインフルエンザ感染症と比べて、感染者数も関連死亡者数も遥かに少ない状況で収まることは目に見えているではないかと僕には思えるのだ。別の言い方をすると、感染者数が1千万人にはとてもならないから関連死亡者数もインフルエンザに比べて遥かに少なくて終わるはずだということだ。

(注)この記事から1年3ケ月が経過した時点で、公式にはコロナ死亡者が1万4千人なっている。しかし、厚労省による「大幅な水増し死亡者」を誘導する通2020年6月に全国の医療機関に発せられいた(僕も受け取った)。僕は、当初、せいぜい1千人くらいだろうと書いたが、このことはその後、多少の自己修正をして、2~3千人以下と書いていたのだが、最近の他の複数のユーチューバによる公的データーを用いた計算に従うと、実際のコロナ原因の死亡者数は1千人強でしかないという意見が出ている。このことは「意味論コラムM」において、5月22日・5月30日・6月8日の3回のPCR検査の検証に関する投稿で議論した。
(2021.6.27記)

 だから、インフルエンザにおけるタミフルのような治療薬があろうがなかろうが、日本の民衆は「新型風邪はインフルエンザ並み」の気持ちを持って普通に生活しておけば宜しい」というのが、僕の結論めいたものである。
 なお、国際社会における対外的な体裁というポイントは政治的な案件であり、しばしば真実とはかけ離れている場合が多いので、政府は国益という観点からの適切な対応をしなければならないが、このことは民衆がいちいち判らなくても(実際、判らないし)よいのになあと僕は思う。
 
 ここまでの騒ぎになったからではあるが、日常生活としては室内での感染がおこりやすいので、集会を数週間だけでも避けるのは良いことだと僕は思う。東京オリンピックも近いので国際社会からの「無策の国ではない」という承認を受けておきたいという要請がある。社会的にはこれくらいの対策で仕方がないだろう。他にはないのではないか。今後の生活の場においては、必要があって室内で作業をする場合でも、マスク着用の是非は場合によると思われる。近隣に感染が及んでいないところではマスクも要らないと僕は思う。ただ、現実に、老人性専用住宅においては、より慎重な対応が望ましいし、地方の行政が指針を示している例を伝え聞いている。こういうことと関連して、部屋の換気をしっかりすることはもともと一般論として勧められることである。
 戸外では多分うつらないから(インフルエンザもそう判断すべきだと僕は思う)、戸外で歩いたりする際にマスクをするのが当たり前のような恥ずかしい光景を演じて欲しくないと僕は思う。

 「今日はインフルエンザ関連死亡が○○県で50人ありました」というような報道を詳しく毎日報道するというようなことは適切ではないと思う。そういう事実があってもだ。さらにいえば、もともと単に普通の感冒としか言いようのないような病気でも、それが契機に少なくない高齢者の人々が亡くなっているのである。このことはいちいち報道されはしない。マスコミがフォーカスし過ぎなければ、民衆も多少は冷静で過ごせるかもしれない。結局はマスコミがあらゆることを炎上させるのである。僕たちのような巷間の民衆はマスコミが連日報じるいろんな領域の知識を詳細に知る必要はないのではないか。
 巷間の民衆はマスコミの報道や健康食品の宣伝などの繰り返しの洗脳により、自分が決定論的な正解組(勝ち組)になりたいと思うようになるようだ。しかし、情報を流している側でさえ(こそ)、人生のカオス的な本質が理解できているわけではないのであるから、もう何をか言わんかである。自分だけが得をしようなどという厚かましいことを思うことから混乱が生じるように思われる。
 しかし、この件でマスコミだけが悪いようなことはこの文節では敢えて言わないでおこう。僕は最近の20年、40年と時代が過ぎて行くうちに、日本の民衆自体が限りなく贅沢精神に侵されているように思えるのだ。大金持ちだけでなく、巷間の民衆までがそのようなのだ。天災がやってきたのだから、通り過ぎるまで自分たちのできる範囲内で慎ましく冷静な対応をしようという気持ちになれないのかなあと思ったりする。池田隼人首相の「日本は今や戦後ではない」以後、日本は結局は、経済第一主義になり、古来からの日本民族の分別やたしなみを捨て去ってきたように思うのである。
 それでも、海外からの旅行者は今の日本人の生活にポジティブな影響を受けて覚醒する人々が結構いるので、まだ佳き精神が沢山残っていることも事実なのだ。2020年は日本の精神文化の折り返し点になって欲しいものだと思う

 なお、このブログでの「新型風邪」ついての書き込みはこれで終わろうと思う。各書き込みにおいて、繰り返しの部分が多くなったし、充分書いたという実感がする。そして、この時点までの僕の予想が外れないことを願っている。外れても言い訳はしないでおこうと今は思っている。ただ、「意味論コラムM」の方には、診断検査キットについての雑感集的な話を最後に書こうという気になった。実は、僕には、他に書きまとめないといけない数十年来の仕事があるのだが、これが困難で全然進んでいない。このままだと先に死んでしまうことになることを心配するようになった。来年は後期高齢者になってしまう。

(注)この投稿後については、結局、新型コロナについてのブログを時に応じて書き続けることとなって、現時点では、20数編にもなっている。主に、「意味論コラムM」の方でこれを扱っている(現在の「日出づる国考M」のブログからは、「miz-oka」の部位をクリックすると、リンクが張ってある)。この投稿の2020年3月から現在の2021年6月における投稿までの1年3ケ月の間に、自分の考えについての基本的な訂正や修正はほぼなかった。「日本においては」であるが、やはり「新型コロナで国民はごく普通で過ごしてよい」とずっと思っている。しかし、マスコミの馬鹿力は偉大なもので、官僚や医学関係者でも「思考の洗脳」または「発言機会の選別」を受けていると僕には明確に思える。政治家の思考と行動の習性は僕には判らないことが多い。
(2021.6.27記)













2020年3月2日月曜日

新型コロナで「朝令暮改」は状況によっては適切だ

 新型ウイルス感染症への日本政府の対応については、マスコミからは批判の論調が強い。マスコミは常から、反自民党政権の体質と視聴率のために騒ぐ体質があるので、それは予想通りだ。
 しかし、ことが簡単ではないので、その対応については反政府筋でなくとも、多くの反対論や疑問論が溢れてくるのも当然だと思う。
 「その対応は問題も大いにあるかもしれないが、まあ仕方がない」という肯定論や消極的な肯定論は、どの話であっても一般に声は小さい。

 日々状況が変わっていく事象に対しては、「朝令暮改」は正しい対応でありうると思われる。「朝令暮改」にはもともと悪い意味が込められていることは敢えてここでは取り上げない。「臨機応変」という言葉もある。「コロコロ方針が変わっておかしいではないか」と反射的に無責任なことを言わない方がよい。
 今回、急に、首相が先ずは数週間程度の全国的な学校閉鎖の方針を明らかにした。物事には外せないタイミングがありうるし、「急に」も仕方がないかもしれない。そして、予想より状況がよくなれば、「急に、最初の1週間で学級閉鎖を解除する」と言ってもよいのである。この時にも国民は反射的に文句を言わないことだ。
 今回の学級閉鎖の日本の方針は、少なくとも外国が日本政府を信用するという効果をもたらすという潜在的な日本の国益にかなうという副次的な(結構、大きいか)意味合いもあると思われた。
 その政府発表の内容の細かいことは問題ではなくて(正解は誰にも判らない)、今回政府が強力な指導力を発揮したという事実が重要だと僕は思う。緊急時に政府の指導力を発揮できないことが最大のこの国の問題なのであり続けたからである。
 
 この政府方針を契機に(対応策が大正解であったかどうかにあまり関係なく、たまたま今が時期的に公衆衛生的状況の分岐点なのだろうと思われる)、今回の新型ウイルス感染症は比較的早期に見通しが立つとを僕は期待しているし、多分そういうことになるだろうという予想をしている。日本では、もともとインフルエンザ並みの脅威のものだったのだろうと僕には思えるのだ。
 ➜「本ブログ」(新型ウイルス感染症で国民は普通に過ごしてよい.2020.03.03)