2019年1月31日木曜日

大東亜戦争は誰が誰に謝罪するべきものだったのか?


 日常生活においても国際的事案であっても、自分の胸の中に悪いことをしたという確証もないことを安易に謝罪することは最悪の行為だ。もし自分も多少は不都合な行為をしたかなという場合は、「無条件謝罪」ではなくて「限定的謝罪」にしておかないといけない。そういえば、ポツダム宣言を受諾しての「無条件降伏」などは避けなければならなかったことである。ただ、事実としては、無条件降伏ではなかったのだという解説を読んだことがある。しかし、日本の教科書では「無条件降伏」と書いてあった。

 それはさておき、戦後の我が国の他国への不適切な謝罪は、パッと考えても直ぐに2事案のことが出てくる。 一つ目は、大東亜戦争における戦争責任のことである(二つ目は次号)。
 遡る第一次世界大戦後のパリ講和条約では、「戦争犯罪」という概念は結局は採択されていなかったのだ。講和会議の途中でいろいろ経緯はあったものの、最終的には敗戦国のドイツに「今回の戦争の責任は貴国にあるのだぞ!」という「言い分」を認めさせただけだった。「犯罪論」ではなく、「お前が悪い」という「責任論」に収まった。ただ、国境の変更だけでなくあまりにも莫大な賠償金をドイツに強いたのが問題で、このことが次の大戦を引き起こした原因だという戦勝国側の反省がある。この大戦の前はどの戦争であっても「責任論」でさえ存在しておらず、第一次大戦の時の「ドイツの戦争責任」ということはそもそも「事後法」だったのだ。それまでは、「賠償金」や「領土の奪取」というのはあったが、これは「敗者」が「勝者」に奪取される「習わし」というもので、「責任論」ではなかった。
 次の第二次世界大戦の始まる前の時点では、細菌兵器の使用と非戦闘員の認知的殺傷は「犯罪」であるというコンセンサスだけはあったのだ。
 
 次の第二次大戦後の処理において、ニュルンベルグ裁判は明確にナチスのユダヤ民族粛清という人道的犯罪として行われたもので、全体の「戦争犯罪」に対したものではなかったはずだ。
資料を素直に読めば分かるはずのことだが、東京裁判には全く国際法的根拠はなくて、むしろ米国内の政治的力学の中で強行された恣意的な劇場でもあった。大東亜戦争の敗戦時に急に降ってわいたような「戦争犯罪」という「言いがかり」を言い出した戦勝国(先導した米国)の方に国際法違反があったのだ。事後適用の実施ということは法的には認められないのが「イロハのイ」で、国際法では明確にそうだったはずだ。なお、非常識極まりない国家においては事後法適用をすることは現在でもあるのだが、一応の先進諸国においてはこういうことは行われていない。近代的な法令・法律はそもそも「自然法」という概念のものではないのであるから、artificialでarbitraryなものであるので、その時点で記載されているvalidなものしか適用をしてはいけないのだ。太平洋戦争においては、米国は原爆投下という大量住民を殺傷する重大な「戦争犯罪」を起しているのである。二度目の投下は百倍も犯罪的だ。それだけでなく、東京大空襲とかグラマン戦闘機による住民の狙い撃ちという非道なことを米国が日本人にしたのである(僕の姉も少女の頃に機銃掃射を受けて田んぼの中を逃げ回ったと語っている)。戦争犯罪人は米国であった。ただ、勝者であったのだ。
東京裁判の時は、その時点での国際法に基づいたものではなく、勝者に力づくで裁判に引っ張り出されたわけであり、物理的には抗する手立てはなかったのだろう。しかしである、その時もその後の現在に至るまでも、我が国の誰一人として、我が国あるいはその時の国の指導者が戦争犯罪者であるということを心の中で受容するべきではないのだ。国家として各国民として外国への謝罪は腹の中では拒否しておき、しかるべき時期を引き寄せてその立場を公にするという努力をしなければならなかった。
東京裁判の意味合いをニュルンベルグ裁判のそれと同列い扱うことを我が国の少なからずの人間さえもが雷同しているのを長らく眺めてきたが、こういう人たちは他国の国益や特定のイデオロギーに容易に洗脳されしまう論理の未成熟な人たちなのであろう。哀れで情けないけれども傍迷惑なのだ。そもそも「日独同罪論」という議論はユダヤ人はもとより一般西欧諸国の人も決して許さないようなひどい考えであるということは「日本人が知らない最先端の世界史」(福井義高著、祥伝社、2016)の冒頭の部分に、馬鹿でも理解できるように書いてある。

戦争というものは異常で特別の状況であるので、人権の制限や個人の悲劇というものは相手国の人々に対してだけでなく、自国の国民にも強いる構造になっている。残虐な事案はどの交戦においても大なり小なり起こってしまうものだ。戦争自体が悲劇を生むのである。 

その後、ベトナム戦争などの局地戦争において(戦争の中では、当然、確率的に生じてくる)非人道的な行為に対して、一度も「戦争犯罪」などは適用されていない。当時の米国が日本だけに適用したかっただけなのだ。
そもそも、戦争中の兵士の現地人への犯罪行為は、兵士の所属している国の軍法会議においてのみ処罰される。これが当時でも今でも真実なのである。実際、大陸やインドシナに進駐した際に、何人もの日本兵が軍法会議で命を贖わさせられている。
 
 戦後、ほとんど主張されていないことで僕が示したいことがある。ずっと若い頃から思っていたことだ。終戦時に日本の責任ある指導者だった者は、日本の国民に対して明確で深い謝罪をしていないのではないか? 「戦勝国に対する戦争犯罪者」などといういい加減な言いがかりへの対応だけしてしまって、肝心の国民への謝罪が不十分過ぎた。
 どの戦争でも、「戦勝国が正義になる」というのが長い歴史上の真実なのである。国際連合をシンボルとする現在のレジームも「戦勝国だった者が正義」のレジームである。日本は今後もレジーム側の都合の良い時に敗戦国であることを喚起させられるのである。
 悲しいことには、日本にとってのこのレジームは第三次大戦が起こらなくては崩れないだろう。これを崩すには、第三次大戦が起こり、日本が少なくとも敗戦国の側に加わっていないことが必要条件である。多分、必要十分条件かもしれない。日本はその時には中立国であって戦勝国側に加わっていなかってもよいのかもしれない。こういう際どい議論が喚起されるほど、今のレジームは日本にとって理不尽なものなのである。
 しかし、このレジーム状況を現在に至るまでアクティブ化し続けて政治カードを切ってくるのは、世界広しといっても現実には中共と韓国の二国に際立っているということも事実なのである(北朝鮮は別枠として、ここの議論には入れていない)。この姿勢を続ける今の二国と仲良くすべきだという日本人については、生理的な心理機構に抗するほどイデオロギーの影響を受けていると判じることができ、平気で白を黒と言っている嘘つきともいえるし「裸の王様」現象を呈しているといえると思う。
 このカードを有効にし続けさせている最大の責任者は「自民党」である。日本国に対する責任政党の最重要の仕事をさぼっている。これが無自覚でないところが犯罪的であると思う。本当なら、左翼的教育を受けた比率が多い官僚や明らかに左翼思想のマスコミなどに正しい舵を切り替えさせる技量と意思があるべきだが、自民党議員の中にも戦後レジームの擦り込みを受けてしまっているのが増えてきているので見込みがないのである。こういう意味では我ら団塊の世代が一番悪いのではないだろうか。若者に期待せざるを得ないし、彼らこそ既に大手マスコミの欺瞞を見抜いているから、未来を期待したい。

 この号における結論的なことは、「負け戦さ」をしてしまったことについての国民への謝罪だけが必要であったということである。終戦時に日本の責任ある指導者だった者は、日本の国民に対して明確で深い謝罪をしていないのではないか? すなわち、強力な米国と開戦したという愚行についての謝罪であり、一歩譲ってもミッドウェイ海戦の辺りで「降参」しておかなかった愚行に対しての謝罪である。結果論でもあるが、判断を大いに誤ったということでもある。
 昔も今も、一国の政治の責任者はその国の国民に対してのみ道徳的責任を負っているわけで、事実として、他国の国民に対しては特に道徳的責任は負っていないのである。事実としてそうであるから、現在の中国でチベット人やウイグル人が共産党政府からの犯罪的な民族的迫害を受け続けていても、残念ながら他国は根本的には手出しできない現状になっているのである。それは、好戦的な中共が強引にチベット人やウイグル人の領域に侵攻して「ここは自分たちの領土である」と内外に宣言してしまって、(本当は認めてはいけない)既成事実を作ったからだ。結局は力ずくなのだ。一旦こうなってしまうと第三者の国が対処してあげようと思っも、それが難しい。「内政干渉」という問題になるからだ。つまり、良くも悪くも、国家は自国民に対してのみ責任を持つことを許されているというものである。

 日本は戦勝国に対しては胸を張ってもよかったが(戦犯なんてとんでもない概念だ)、自国民に対しては顔向けできなかったはずだ。ズルズルと敗戦の決断を先延ばしにしていって自国民の命を多数奪われ、国土を荒廃の極に至らしめた理由は、多くの国民のことというより別のことを守ろうとしたようであり、このことこそ検証して反省しなければならないのではないだろうか。


2019年1月27日日曜日

多くの在日朝鮮人へ「日本に帰化して今後の祖国として下さい」


  僕は歴史のことには大いに興味がある。日韓関係の歴史についてもそれなりに知っているところは多少ある。そういう僕は、申し訳ないが、現時点では朝鮮民族について好感が持てない。今のような時代であっても、韓国旅行に行ったり韓流ドラマを好んで観たりする日本人とは同じ飯を食いたくないというのが本心であるという偏狭なところがあるのは認めるところだ。
 そういう日本人は嫌なのだが、ところが、僕は、それなりの数の朝鮮出身の人たちと縁あって付き合ってきたのであるが、好い思い出の人ばかりだった。小学校の同級生(地域には朝鮮人が多少はいた)と大学の医局の同門に数人の朝鮮出身者がいる。僕の所属した部門には大阪の生野区の地域と何時頃からかパイプができるようになり、自分がスタッフにいる頃から朝鮮出身の医師が研修に入ってくるようになった。みんな本当に愛すべき後輩だったし真面目な仕事ぶりだった。僕が大学を去ってからも、わざわざ自分の方から会いに行ったり、向こうから会いに来てくれた可愛い後輩を思い出すことができる。診療所を開業してからは婦長になってもらうことが決まっていた優れた力量があり人間的にも秀でた美人でもあるナースがいたのだが、ある時、自分は朝鮮出身者だと打ち明けた。僕は「ああ、そうか」と言っただけで、驚きもしなかったし、全くウエルカムだった。ただ、結婚で転居したためにそれが叶わなかったことが、僕にとっては実に残念に思ったことだった。それと、ある期間、隔年で日韓の医師同士がサッカーの試合をする九州地区内のYMCA関連のグループに属していた時に、韓国の若い一般外科の人と知り合いになった。ともにワイフ子供連れで歓談をしたのを懐かしく思い出す。非常に上品な感じの人たちだった。その後、日本の大学で食道外科を研修をしたいというので、一応は手紙でアドバイスをしたりしたが、僕は、呼吸器外科出身で、既に開業医になっていたので、結果的にはお役に立てなかったので、申し訳なく思ったものだ。

 日本人がどうのこうのとか朝鮮人はどうのこうとかの括りは、外れる内容が多いから厳密には無意味だと思う。遺伝子がどうのこうの、つまり人種であるが、これがこういう事案において重要だとは思えない。ただ、民族という括りはそれなりに意味がある。何故なら、幼少時からの家・地域・学校・マスコミなどから受ける長年の刷り込み(良くも悪くも)が、民族のマクロな特徴になってくるからだ。ただ、日本人でも僕とは相いれない刷り込みをされている人たちが結構いるのであり、せんじつめれば個々の人格に帰するものである。
 僕は、もう2世・3世の日本で生まれ育ってまだ在日朝鮮人の立場の人たちには日本人に帰化して欲しいと思っている(韓国の法律がネックになって、日本への帰化が難しい場合があるらしいが、・・・・・)。彼らは日本の文化の中で育ち上がってきたので、実は、文化的には紛れもない日本人なのだ。遺伝子が大事ではなくて、現在暮らしている生まれ育った故郷に愛着を持って欲しい。
 日本人がブラジルやハワイに移住した場合は、一世の人はもちろん日本人としての誇りを大事にしたが、同時に、移住先の国民になり切ろうという努力もした。日米開戦の際には、強制収容所に押し入れられた残虐な米国の仕打ちに、それでも忠誠を誓わざるを得なかった米国への移民者の無念に思いを馳せるのである。日本人にはそういう謙虚さがある。これを参考にしてほしい。移住に至った経緯はどうであれ、住んでいるところを新たな祖国として大事に思わなくてはならない。そういう気持ちになれない人は昔の祖国に一刻も早く帰ってくれと強く言いたいし、日本の政府が早急にそういう仕組みを作るべきだと主張したい。
 最近のネットでは、名の知れた芸能人や政治家などについて、「実はこの人物は朝鮮出身である」との発信をするネガティブキャンペーンを数多く見る。既に、日本人として生活している善意の人たちにとっては、実に腹立たしいものだろう。名字も日本式に変えて、日本人として生活してくれている人たちにする仕打ちではない。書き込んでいる人たちの根の気持ちは解るが、それなら、ネットにアップする前に悪いと思う連中を絞り込んで、キャンペーンをかける根拠を示しての情報を出さないといけない。

 僕の母親の祖先はきっと朝鮮半島の出だろうと、僕は子供の頃から勝手に信じている。本人と親戚の顔付きと出身部落の地域を鑑みてのものだ。もしそうなら、飛鳥時代かあるいはもっと以前の古墳時代の頃に渡来してきた末裔だろうというものだ。僕はそれに気付いた時も実に興味深いなあと思っただけだった。人種の差とか数世代前の民族の区別はどうでもよいことだ。端的に言えば、自分たちは今どういう精神文化を引き継いでいて、将来どういう精神文化に変わっていくのかそうではないのか、そういうことが本質的なことだと思う。戦後のレジームの中で日本人の精神文化の先行き自体が怪しくなっていることが問題だと思われる。

韓国は中国や北朝鮮よりもややこしい国だ(その2)


戦後70年余の我が国の韓国への対応は実に拙いものだった。韓国が政治的にも経済的にも道徳的にひどいことを数多くしてきたのに、我が国の対応はインポテンツを貫徹してきた。政治とか経済とかの話になると、素人には実際に判らないメカニズムや戦術・戦略のノウハウなどがあるので、口出しするにも限度があるように思ってしまう。しかし、一方、そういうことを言い訳にして、素人にも判るような不適切な行動を政治家や経済人が強行してきたという図式も存在すると思われる。ただ、韓国がまともな国でない事例は政治と経済のプロパーを敢えて除外しても枚挙に暇がない。


 容易に判るのはスポーツのことだ。2002年のサッカー・ワールドカップは日本開催で決まるはずのものだった。極度に名誉に拘る日本が立派な大会を主宰できたはずだった。ところが、韓国が途中から横槍を入れてきて、日韓共同開催となった。当時、自国よりサッカー小国の日本が自国より先に開催するのが我慢できなかったのだ。FIFAの会長選挙の力学・韓国人の副会長の存在の影響があったが、韓国の選挙票の買収が疑われた。それはともあれ、共催になった結果、事実として、この大会は審判の買収事件で台無しになってしまった。韓国は、朝鮮半島で行われた自国の試合で審判を買収して勝ち上がった。誰にでも判る誤審を強行したために(ビデオで証拠が残っている)、勝ったはずのイタリア・スペインは負けてしまった。イタリア戦のエクアドル人主審は、その後、買収を受けたと認定され、世界中にその顔と氏名が公表された。スペイン戦ではエジプト人が主審をしていた。欧州のサッカーのレジェンドや有力選手は、韓国では二度とサッカーの試合はしないと吐き捨てるように公言した選手は数多い。 
 サッカーW..の長い歴史の中で、複数国による共催は、後にも先にも、この大会だけなのだ。日本が、そんな前例のないことは認められないと突っぱねれば済んだはずだった。ところが、日本は何故常に韓国のごり押しを許すのだろう。あの河野洋平と朝日新聞が日韓共同開催を後押ししだしたことも事実のひとつだ。いつも、このパターンなのだが、河野と朝日新聞の組み合わせも頭にくる話だ。戦後(日韓併合中もそうであったかもしれない)の日本は韓国に対して見事にspoiling motherの役割を果たしてきたのだった。長い目で見たら、これは韓国にとってはまともな国家に成長できなかった理由の一つであり、気の毒なことであったともいえる。別に、そんな国に思い入れはないが、その結果、世界が迷惑する。
2010年(バンクーバー)のフィギャースケートのキム・ヨナの金メダルにおいても審判が買収されていたという検証が多く語られている。審判員の一人であった韓国人が介入していたことが同定されている。他の審判員も買収されたと思われる。後でビデオでチェックすると採点が不当に高いことが判る(ユーチューブでその証拠を容易にみることができる)。逆に、2014年(ソチ)でキムは銀メダルに終わったが、韓国人はいまだに金メダルを取ったロシアの選手の悪口を言い続けている。自分たちが不正をするのが当たり前なので、他国も同じことをすると思っているらしい。因みにキムに敗れて銀メダルに終わった浅田真央の日本からはキムの悪口を言わなさ過ぎだと思う。聖人でもあるまいし、抑制の利いた多少の恨み言を言う方が生きた人間らしいと思う。特に、日本のマスコミはいまだにキムのことを、(韓国ではない日本のマスコミであるにも拘わらず)英雄偶像として扱っており、素直な人間の魂を持っていないことを示している。
バドミントン大会を韓国ですると、相手国の選手の方に不利になるような風が流れるので気を付けないといけないことになっている。
僕が不思議に思うのは、世界の他の競技団体も韓国という国の道徳の低さを伝え聞いているはずなのに(情報を仕入れる義務がある)、あのW..の後でも、数多くの国際大会を韓国で開催していることだ。私見であるが、世界の競技の責任者はスポーツを愛していないのだろうと言いたくなる。僕はあまりに不思議なので、つい、韓国の金銭やハニートラップによる買収を思ってしまうのだ。韓国はこの方面は歴史的に実績がある。僕は、50歳頃に地方のYMCA関連の医師サッカーの友好試合に出場するために一度だけ訪韓したことはあるが、観光旅行には行ったことがない。僕たちの若い頃に観光に出掛ける男どもはほとんどがキーセンパーティを楽しむために行っているのだろうという認識を僕はしていた。国家挙げての外貨の獲得事案であったのだ。今でも海外での「慰安婦」進出が他国を圧倒しているらしい(しばしば、日本人になりすましているらしい)。そういう国が、今更「慰安婦問題」でいちゃもんを付けてくるのもお笑いものだ。この件も朝日新聞などが国内から手引きしたのである。

僕が以前から注目していることがある。2017年の卓球アジア大会で平野美宇がそれまで実績を独占していた中国選手をなぎ倒して21年ぶりの優勝を日本にもたらしたのだが、それは中国開催での大会だった。地元の中国人観衆は、耐え難い結果であったにも拘わらず、それなりに礼節のある態度であったらしい。直後のネットでは多くの中国人は「残念至極」でもあるが、「平野は素晴らしかった」という書き込みも多かった。実は、昔からサッカーの日本代表チームが快挙をすると、中国人はやはり素直に称賛することが多かった。陸上競技の男子百米x4リレーの日本の快挙の時も中国人は褒めもするが、正直に羨ましいと書き込んでくる。中国の人々はスポーツそのものを愛している人が多いと思われる。スポーツだけでなく、芸術・科学・文化に対しても多くの中国人は実績自体を評価できる資質があるように感じる。韓国人はこういう反応とは程遠い。サッカーの試合に「戦争責任」ということをしつこく言い募る。韓国人が旭日旗にいちゃもんを付けだしたのは最近のことだが、これは国家の名誉に拘わることであるという認識が日本の政府や官僚にないことが許せない。「スポーツをやっている時に何を血迷ったことを言うのだ」「恥を知れ」と言わない日本人こそ敢えて責任を追及すべきかなと思うものである。
多くの韓国人(silent majorityは別に存在している信じている)からの発信から判ることは、この国には絶望的な程に、「公」と「恥」という資質が欠落しているということだ。翻って我が国はどうかというと、ある面、自我というものが確立していないので(未成熟・幼稚とも受け取られる)、他国人からの評価をアイデンティの拠り所にしてしまう。その結果、病的なくらい「恥」「気遣い・遠慮」意識が優先されてしまっている。政治家や官僚やマスコミ人において、こういう精神病理学的資質が「日本の普通の国益を」大いに損ねている。「公」の日本の現状はというと、国際的な事案においては国益を考えずに異常なほどに公というものを大事にし続けているが、国内の生活の中においては絶望的な勢いで失われつつある。つまり卑しい民族にならんとしている。しかし、この傾向は、経営者や政治家やマスコミなどのマジョリティに顕著であるが、我ら市井や巷のマイノリティにおいては「公」の悲しくも美しい徳目がなお根付いているという実感がある。

昨年の平昌の冬季オリンピックの際に、韓国の大会公式ホームページに載せた地図から日本列島だけが二度も地図から消えていた。故意でないはずはない。こんな愚劣な行状を韓国以外のどこの国がするというのか。中国はしないだろう。北朝鮮もしないかもしれない。これは非常に無礼な仕打ちであるから、声高に避難・叱責しなくてはならなかったが、政府はほぼ反応なしだった。マスコミの大部分は意図的に小さく報じただけだ。「声高」は恥ずかしいなどと我が国の町内の話のような能天気な感覚であってはならない。「声高」にしないから、いくらでも無礼で信じがたい韓国からの仕打ちが去年も今年も止まないではないか。「声高」は多少の政治戦術としてあるべきだ。そうすることによって、遠い西欧の人達にも韓国の愚劣さの深刻さをもっと早く知らしめることも出来たはずだ。


一寸、政治のことも補足しておきたい。日本人が国連などの国際機関のトップに就任した場合は、立場を利用しての自国への利益誘導は恥ずかしいと考えて(考え過ぎて?!)、完全公平をモットーにしようとするだろう。韓国はその反対の極の国だ。前任の国連事務総長は韓国人だったが、彼もこの面でひどかったらしい。もともと朝鮮人社会では「公」という概念が乏しいので、そういう教育もなされていないらしい。であるのに、その後も国連関連の要職に凝りもせず韓国人が選ばれているのが僕には気になる。お得意とも思われるあからさまな利益供与が行われているのではないかと疑うものであるが、今の僕には資料がない。

中国は、戦後の日本への戦争賠償を直ぐに放棄した。書いている今、その政治的理由は僕は思い出せないけれど。韓国は、日韓併合中に莫大な額のインフラ整備や教育の充実という支援を受けたにも拘わらず、また、終戦時は朝鮮全体は敵国でもなくそれ故戦勝国でもなかったにも拘わらず(朝鮮人は日本兵として中国と戦っていたから、敗戦者側なのだ)、莫大な額の実質的上の賠償金を掻っさらっていった(それを使用または流用して漢江の奇跡をもたらした)。これだけでもひどい国なのだ(しかし、この件においても、戦後の日本の政治家や官僚が一義的に悪い)。最近でも、インドネシアで開催されたASEAN関連の国際会議で、韓国代表は性懲りもなく会議中に日本の戦争責任を言い出して参加国をうんざりさせた。主催者側の閣僚が「我々の国も、もし日本に近い場所に位置していたら、随分日本の恩恵を受けて経済成長していたはずだ」とその公開の場で韓国の発言を諫めた。こういうことは、日本のTVや新聞では絶対に出てこない。安倍首相が訪印した際に、信じがたい程の国家挙げての大歓迎であったことも、多くのマスコミはそれが面白くないので報道しない。獅子身中の虫を証明している。しかし、ネットからはそういう事実が動画を通じて拡散しているのだ。伝統的なマスコミには「残念ながら」と言ってあげたい。

戦後直後から、韓国は李承晩ラインという身勝手な線を地図上に引いて日本の漁民の拉致を繰り返した。僕は小学高学年だったが、新聞記事を見るたびに義憤を禁じ得なかったことを思い出す。数多くの漁民が長期拘留された。李承晩政権はこういう人質をとって日本との戦後交渉を進めたのである。
しかし、中国は戦後直後は日本に対して韓国のような悪行を大してしなかったように思う。国内問題が大変で対外的な余裕がなかったのかもしれない。その後の経過をみるに、日本の左翼的文化人やマスコミがトロイの木馬のように中国の口撃を次第に手引きしていったのである。
在日中国人や在日朝鮮人の一部が反日活動を続けていることは確かであるが、僕はそのことはここで非難する気にはなれない。日本人ではないからだ。このことにおいては、法的ないし政治的に対応しないで済ませてきた日本の政治家や官僚に責任があると思う。
まだまだいろいろあるが(機会を改めて書いてみたい)、こういうことを許したのは、敗戦後の精神的インポテンツになった我が国の責任あるべき人々と、日本国民になろうとするよりも世界市民になるべきだ(本質的に、グローバリズムの先駆けなのだ)とアジテートし続けていきた左翼的文化人(実は、似非文化人)という獅子身中の虫である日本人自身の責任に帰するものだと思うものである。なお、本当のグローバリズムの先駆けは、キリスト教宣教師活動とコミンテルンという共産主義活動であろう。これらは、本来の日本の精神とは合わないイデオロギーなのだ。




韓国は中国や北朝鮮よりもややこしい国だ(その1)


 僕は昨年ごろから「韓国は北朝鮮に合併される」場合を想定すると、むしろその方が日本にとってもまだましなのかもしれないとということに気付いた。僕はジャーナリストではないから、詳しい資料をここで示さないが(彼らが書いた資料は読んでいる)、韓国は戦後の朝鮮半島の南半分を線引きして無理やり米国が資本主義陣営に囲い込んで作られた国だ。国の正当性は我々にあると北朝鮮が主張する根拠はそこにあるし、米国も反論できないものだ。
 もしそうなると、38度線での緊張線が対馬海峡に迫ってきて、日本にとってはリスクが増大するという話が出てくるが、現在の各国の武器を概観すると、こんなことは実はたいした話ではないのである。日本の防衛体制の構造(先ずは、憲法から)を世界標準しない限り、リスクは今までも今後も大きいのだ。現行の憲法は「世界の非常識」の典型であることを認めない連中は「裸の王様」である。
 北朝鮮は「ならず者国家」であるし、一般国民に恐怖政治や圧政をしいているが、外交的には日本よりも国際標準である(前号に記した)。我が国が陳腐ではあるが成熟した国際的標準の外交をすることしか、日本人の安寧の基盤はないと思われる。
 中華人民共和国(中共、ここでは中国と言っておく)や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は権力を握っている政府が党独裁であるから、そもそも普通に付き合うべき国ではない。それにひきかえ、大韓民国(韓国と言っているのは先進国の中では日本だけで、他の国は南朝鮮と言っている)は共産主義国家ではなく自由主義陣営であるので、価値観を共有する国家仲間としてのまともな付き合いをしてもよい国と思われてきたのだろう。一体、誰が本当にそう思ったのかなあと僕にはずっと釈然としていないことだ。
 最近、韓国を同じ価値観を持っていないということにようやく気付いたからそういう扱いにすべきだという政治家や官僚が増加してきているように見受けられる。遅過ぎるのだ。僕に言わせると、韓国の人たちは、以前から、日本とだけでなく多くの西欧諸国ともかなり価値観が違っているのだ。それもあって、いわゆる右寄りといわれる人々においては「東亜三国」という括りの中に入っているのだ。僕も、これはよくできた表現だと思っている。つまり、この近隣の三国は警戒を要するのであるという認識なのだ。敢えて言うまでもないが、どの国にも素晴らしい人とろくでもない人とどちらともいえない人たちがいる。個々はそうだが、全体的な構造を言っているのである。
 東亜三国のうちで、中国と北朝鮮、とりわけ北朝鮮は国家体制が相当にひどい独裁体制であるから、そうラベル付けされるのは至極当たり前である。ところが、この二国の個々の住民の価値観がどうのこうのといっても、実は判らない。住民は国家体制の強制する思想に従っている(あるいは、従っている振りをしている)だけなのである。ある日、国家が、「今までと違って、今日からはこうしよう」と言えば、そうなるのである。最初の文章に戻ると、北朝鮮では金正恩が「今から日本と仲よくしよう」と言えば、直ぐにそういう対応をしてくることになる。構造上の論理的な話をしているのであることをご理解していただきたい。しかし、韓国の場合はかえって、今後も面倒臭いことばかりだと言いたいのだ。
 韓国の場合は、実は結構ひどい国家である事例は多過ぎるのだが、それでも他の二国に比べれば、国民一人ひとりが、一応、自由に意見の表現をすることがきる体制なので、そういう意味では格段に開かれた国だ(最近の文政権では、もうかなり閉じた国になっているが、そのことは今日の議論には入れないことにする)。だから、ネットや報道で発信されてくる韓国の人々の意見の多くは、国家に無理やり言わされたことでもなく、素直な人々の考えや感想だと受け取ることができるだろう。個人が親日の表明をすることは袋叩きになってしまう「タブー」であるらしいが、これを自前の努力をして打破するということを選択しないのもするのも体制上は自由なのだ。
 こういう韓国の個人やマスコミや政界の発信内容が相当以前からひどくて、日本だけでなく多くの西欧諸国や東南アジア諸国の少なからずの人々から顰蹙を買っているのである。このことを日本のマスコミや政治家や官僚が、実際上、隠蔽ないし見ない振りをしているのである。前号の論旨と同じく、結論は、そういう「見て見ない態度」を採っている我が国のものの考え方がもっと問題ありだということだ。本論として、次号に具体例を列挙してみます。