- 四年間の専門課程に進む前に二年間の教養課程があった。そのうちの選択科目の中で、僕は「言学」を選んだ。日本語に多少の興味を持っていた。理系の学生はほとんどいなかったと思う。担当の渡辺実助教授は、「言語学ではなくて、言学です」と最初に説明されたが、その内容は覚えていない。かなり専門的な内容の講義だったと思うが、僕は興味を維持して受講できた。日本語の語句の発音の様式から、日本語の由来とその後の変遷を考察していたようだった。断片的に覚えていることで、母という言葉は初めは「パパ」との発音だったいうのが面白かった。父はまさかの「ママ」ではなくて、「テテ」だという。今でも、てて親という言葉がある。今、広辞苑で「てて」を引くと、「ちちの転」と書いてあるが、渡辺講義によると、逆に「てて」から「ちち」に転じたのだった。ところで、この母については、papa ➜fafa ➜hahaと時代とともに変化したという。その他、子音と母音、音韻、音便などの解析を教えてもらった。講義の中で、日常生活に関係のある二つのことを学んだので、そういうことでも意義深かった。一つ目は、イントーネーション(音調・抑揚)のことだった。関西の人間は、努力さえすれば関東弁を話すことは困難ではないが、逆は言学的には難しいということだった。山や川などの二音節の単語の音調には①下降、②上昇、③水平の三種類があるが、関西と関東では、①と②とが見事に反対になるのは割合に知られていることだ。ところが、関西語の②の中には、②a単純上昇と②b語尾に微妙に下がりのある上昇、という二種類がある。関西人は②を全部①に変換すれば、関東弁になるので迷うことはないが、関東の人は、①が②aに変換するのか②bに変換するのかは認識のある関西人にレクチャーを受けておかないと判らないのだ。関東語で説明すると、隙・鋤(スキ)の音調は③なので、関西でも③のために問題はない。好き(スキ)の音調は②なので、関西では①になる。橋(ハシ)も②なので、関西では①となる。他方、箸(ハシ)は①なので関西では②(②a)になる。ところが、窓(マド)は①だが、関西では②bになる(マドではなくマドオ)。僕は今これを書いていてヒットしたのだが、この(マドオ)の発音の仕方は、(ヤフ)をYahooと、(スキ)をskiのように発音するのと似ていると思う。この窓のようなケースは多くないかもしれないが、僕の判断では、他に晴れや雨とか亀などがそうだと思う。僕自身はこれらの言葉の発音で関西人でないことを察知する自信があるように思える。なお、渡辺講義とは無関係だが、理由はしらないが、熊本人の言葉は二音節であろうが、三音節であろうが、しばしば文節であろうが、全然抑揚のないことが多くて、このことで、熊本人であることが判ることがある。二つ目は日本の方言の分布に関する原理である。これはフランスにおける方言の分布の原理を適用したところ日本でもそうだったということだ。仏国はずっと昔から国の中央にあるパリが文化の中心だった。そして、その国土は概ね平坦である。この結果、仏国の方言の分布はパリを中心に同心円状になっている。パリ語が時代とともに変化してきたのだが、それが周囲に伝わっていったのだ。すなわち、パリからある距離の地方は何世紀前のパリ語であり、それより遠方の地方は、さらに以前のパリ語なのだそうだ。これを日本に当てはめると、そういう傾向が明らかだということだ。ただ、仏国とは異なる二点があって、多少は見事な分布ではない。第一点は、パリと同じく文化の発信地は長らく京都辺りであったが、その後に江戸に政治の中心が移り、明治維新になって以来は明確に東京が言語においても発信地になった。そこで、京都中心の大きい(歴史が長い)同心円に別の小さい同心円を取り巻く発信地ができたパターンになっている。 第2点は、仏国と違って日本は山岳地帯が多い。そこは、波が伝わるのに時間がかかるので、より以前の京都の言葉が島状に残っている傾向にあるという。東北地方の言葉と同じような言葉が山陰地方や九州地方,あるいは中部山岳地方にみられることも、この原理で説明ができるということだった。しかし、この講義以後の半世紀のテレビなどの影響を考えると、東京中心の円が物凄い勢いで大きくなっている可能性がある。
多くの人々は自分の生まれ育った国に愛着があるのだろう。家庭の場合と同じく、いろんな問題に直面して愛憎半ばという場合もあるだろうが、そういう場合でも、やはり「愛着」は軽くはないと思う。ところで僕は、未成年の頃には、恥ずかしながら「西欧人に生まれたら好かった」と思ったことがあった。しかし、いつからか、日本人で良かったと思うようになった。最近は、西欧の一部の人たちが日本の文化や生活を知るようになって、「日本人に生まれたかった」と書き込んでいるのを見る。日本は極めて特異的な国らしい。決して素晴らしいことばかりではなく、馬鹿野郎のところも多いのだと思う。こういうことについて書いていきたい。僕は、最近出版された「日本人に生まれて、まあよかった(平川 祐弘著)」という言い回しが好きだ。これくらいの感じが素晴らしいと思う。ただ、僕は今は、はっきりと良かったと思っている。平川先生も実はそうなのかもしれない。僕は何よりも、品質的に日本語が母国語であって実に有難かったと思うようになった。そして、日本の文化のうちで、良い方の部分は日本語の長所に拠っているところが大きいのだろうと思っている(平成30年1月)。
2018年1月28日日曜日
大学教養学部での「言学」の講義内容
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