2019年4月9日火曜日

死刑制度:「功利主義」ではなく「けじめ主義」を



 日本の古くからの倫理や美学や文化には、「公」と「恥」という感覚がある。こういうことに関連するかもしれないが、「自分の落ち度は自分がケジメを付ける」というのがある。こういう倫理感が最近色褪せてきていることを知る。このことについて従来から気になっていることに「死刑制度の是非」についての議論がある。

最近の西欧社会の多くは死刑制度を廃止している。僕は思う「だからどうなんだ」と。いろんな制度を比較検討して各々の長所・欠点と思われるところを議論することはよいことだろう。然し、各国において、固有の歴史や文化によって各々の決め方があってよいはずだ。そもそもが、狩猟種族の末裔であり、社会規範を一神教のイデオロギーから演繹してくる西欧の人々の文化に無批判に近付こうとする風潮が近代以後の日本にある。最近のマスコミの風潮にも現れている。我が国は、大凡が漁業や農作中心の末裔であり、社会規範を自然崇拝との間で相互的に帰納してきたような穏やかな性格の文化なのだ。我が国は基本的に我が国の歴史と文化を大切にしていくべきだと思う。西欧社会と考え方で争うのではなく、考え方の棲み分けを模索していくべきだろう。それこそが各々の多様性を尊重しあうことであり、望ましいことだと思われる。
僕は今のところ死刑制度存続論者だ。他人の命などを故意に奪うというような取り返しの付かないことをした場合には、それなりのケジメが必要だ。そのケジメの中に死刑制度は残しておくべきだと思う。

「死刑制度を実行しても凶悪犯罪への抑止効果が現実に乏しいからら無意味だ」という意見をよく耳にする。これが将に「効率主義」あるいは「功利主義」だけから演繹される判断だ。抑止効果があるかないかはデーターとしては場合によっては意味がある。それはそれだけのことである。ただ、マクロ的(統計的)に本当にそうなのか判断は難しいのではないかと思われるが(適切な多変量解析をクリアしているのかが疑問だ)、少なくともミクロ的なレベルでは死刑制度は殺人行為に対する抑制効果は確実にあるに違いないと思われる。
あるいは、「死刑にしても被害者の命が元に戻るわけでもないし、単なる仕返しに過ぎない」という意見もある。これは実に他人事の無責任な意見だ。実際に被害者の家族になった場合、こういう発言を聞くと我慢できない気持ちになるものだ。これらの二つの意見には「ケジメ」という倫理的な自己対処についての考慮の欠片もない。こんな「恥」知らずな考えでよいはずはない。
「冤罪で死刑される可能性はゼロではないのだから、取り返しの付かないことになる」という意見も声高である。この話は確かに深刻な話だ。しかし。この点をもって死刑制度自身を廃止すべきという輩は、余程単純な頭脳をしていると思われる。死刑制度の存続と、この不都合を避けることは、別に二律背反的な事項ではないということが判らないらしい。少しでも曖昧さが残る事案については死刑を適用しなかったら良いだけの話であり、そこに裁判官の裁量があるべきだ。ついでながら、「1人殺したら懲役何年で、3人殺したら何年が相場」に似たことが実態であるらしいが、こういう「点数制度」~「前例踏襲主義」のようなことも馬鹿げたことである。個々の事案における裁判官の裁量はどこに行っているのか。
つまり、上記の三つの理由で死刑制度を廃止すべきという論者は、「恥知らず」の考えか「頭の整理が悪い」考えであるということになる。さらに四つ目のより根本的とも思われるところの「西欧諸国の多くで死刑制度はなくなっている。近代の人権思想に反している。要するに、人間がいずれの理由であっても他人の命を奪うことはしてはいけない」というような意見がある。こういう考えはキリスト教と親和性の強い西欧イデオロギーに特徴的だと思われる。十分考慮する部分はあるけれど、医療でも貧困に関する場合でも、直接的あるいは間接的に人間が他人の命の存続の有無を握っている場合は現にあるのである。線引きは難しい。「ケジメ」をないがしろにする方が問題だと僕は思う。死刑制度というものを残しておく方が、より健全な精神文化を担保するものであると信じている。
似非文化人やマスコミに洗脳されることが多い我が国の人々も、この件については死刑制度存続を是とする方が多いというアンケート結果が続いている。この件については、自分自身の感性や良心に問うことが具体的で自分で判りやすいのだと思う。

重要なことを法律という記述でがんじがらめにすべきではない。それは個々の事案において必要になりうるその時々の人間の裁量や斟酌(あるいは忖度)を一切遮断することである。特に、日本では一旦法律や制度が出来てしまうと、不都合があっても改正がほとんどできていないという不適切な現状であるからなおさら問題である。将来、AIの技量が進歩した時に、AIが世の中を仕切ってしまうことと同類の問題がある。やはり、物事の判断はその時々の人間の裁量に大きく基づかなくてはならない。そうでないと、人間こそ、「出来の悪いロボット」になってしまう。そうであるから、本来、法律や政令のようなものはどこか現場の裁量を担保する程度にしておく方がよいのだ。
そもそも、「人間や人生というのは、たとえ真面目に生きても実にカオス的な結果をもたらす」ものであるという真実を深く知ることが肝要だと思われる。その時々の人間の裁量が是か非かについても、やはりカオス的な部分は残るのである。これは人類全般の真実(宇宙の物理現象の真実でもあろう)であると思われるが、日本の古来からの精神文化はこの真実とよい折り合いをつけ続けてきたと思われる。古くからの日本人は「八百万の神」「お天道様」に見守られているのであり(そういう精神文化があり)、それらに対して「恥ずかしい」ことをした場合に、自分なりの「ケジメ」という対処があるのだろうと思う。そして、カオス的なことについては「他人や天を恨む」より「仕方がない」という受け取り方をしてきた。
ある一時(いっとき)の一部の人間が判断した物事で後世の人々をがんじがらめに拘束してはいけない。どうしてそんな権利があると思うのだろう。だから、「死刑制度廃止」や「戦争放棄」というような剛直的な縛りを掛けてはいけない。将来のその時々の人間の判断や裁量を担保しておかなくてはならないはずだ。そして、もし結果的に「この二十年は死刑判決は出なかった」であれば、それはそれでよいのである。
ついでの話。「憲法九条」は当時の日本人が自主的に作ったのであれば、それは後世の日本人に対してあまりにも僭越で傲慢で愚かなことであると非難したい。しかし、現実は、終戦直前までは日本の敵であった米国が作ったものだから、それは僭越で傲慢であったけれど(米国にとっては)愚かではなかったのだろう。これをいまだに正しいものとして堅持しようとする日本人は多段階的に実に愚かな頭の構造をしているに違いない。
ついでの話。今後、韓国や文大統領が日本に対する無礼を通り越した犯罪的な数々の行状を万が一謝罪した場合にも、必ずや何らかの制裁を加えておかなくてはならない。「功利主義」ではなく「けじめ主義」であるべきだ。「落とし前は」つけてもらわないといけない。これは、現行の国際規範とも概ね一致しているはずだ。