2019年1月31日木曜日

大東亜戦争は誰が誰に謝罪するべきものだったのか?


 日常生活においても国際的事案であっても、自分の胸の中に悪いことをしたという確証もないことを安易に謝罪することは最悪の行為だ。もし自分も多少は不都合な行為をしたかなという場合は、「無条件謝罪」ではなくて「限定的謝罪」にしておかないといけない。そういえば、ポツダム宣言を受諾しての「無条件降伏」などは避けなければならなかったことである。ただ、事実としては、無条件降伏ではなかったのだという解説を読んだことがある。しかし、日本の教科書では「無条件降伏」と書いてあった。

 それはさておき、戦後の我が国の他国への不適切な謝罪は、パッと考えても直ぐに2事案のことが出てくる。 一つ目は、大東亜戦争における戦争責任のことである(二つ目は次号)。
 遡る第一次世界大戦後のパリ講和条約では、「戦争犯罪」という概念は結局は採択されていなかったのだ。講和会議の途中でいろいろ経緯はあったものの、最終的には敗戦国のドイツに「今回の戦争の責任は貴国にあるのだぞ!」という「言い分」を認めさせただけだった。「犯罪論」ではなく、「お前が悪い」という「責任論」に収まった。ただ、国境の変更だけでなくあまりにも莫大な賠償金をドイツに強いたのが問題で、このことが次の大戦を引き起こした原因だという戦勝国側の反省がある。この大戦の前はどの戦争であっても「責任論」でさえ存在しておらず、第一次大戦の時の「ドイツの戦争責任」ということはそもそも「事後法」だったのだ。それまでは、「賠償金」や「領土の奪取」というのはあったが、これは「敗者」が「勝者」に奪取される「習わし」というもので、「責任論」ではなかった。
 次の第二次世界大戦の始まる前の時点では、細菌兵器の使用と非戦闘員の認知的殺傷は「犯罪」であるというコンセンサスだけはあったのだ。
 
 次の第二次大戦後の処理において、ニュルンベルグ裁判は明確にナチスのユダヤ民族粛清という人道的犯罪として行われたもので、全体の「戦争犯罪」に対したものではなかったはずだ。
資料を素直に読めば分かるはずのことだが、東京裁判には全く国際法的根拠はなくて、むしろ米国内の政治的力学の中で強行された恣意的な劇場でもあった。大東亜戦争の敗戦時に急に降ってわいたような「戦争犯罪」という「言いがかり」を言い出した戦勝国(先導した米国)の方に国際法違反があったのだ。事後適用の実施ということは法的には認められないのが「イロハのイ」で、国際法では明確にそうだったはずだ。なお、非常識極まりない国家においては事後法適用をすることは現在でもあるのだが、一応の先進諸国においてはこういうことは行われていない。近代的な法令・法律はそもそも「自然法」という概念のものではないのであるから、artificialでarbitraryなものであるので、その時点で記載されているvalidなものしか適用をしてはいけないのだ。太平洋戦争においては、米国は原爆投下という大量住民を殺傷する重大な「戦争犯罪」を起しているのである。二度目の投下は百倍も犯罪的だ。それだけでなく、東京大空襲とかグラマン戦闘機による住民の狙い撃ちという非道なことを米国が日本人にしたのである(僕の姉も少女の頃に機銃掃射を受けて田んぼの中を逃げ回ったと語っている)。戦争犯罪人は米国であった。ただ、勝者であったのだ。
東京裁判の時は、その時点での国際法に基づいたものではなく、勝者に力づくで裁判に引っ張り出されたわけであり、物理的には抗する手立てはなかったのだろう。しかしである、その時もその後の現在に至るまでも、我が国の誰一人として、我が国あるいはその時の国の指導者が戦争犯罪者であるということを心の中で受容するべきではないのだ。国家として各国民として外国への謝罪は腹の中では拒否しておき、しかるべき時期を引き寄せてその立場を公にするという努力をしなければならなかった。
東京裁判の意味合いをニュルンベルグ裁判のそれと同列い扱うことを我が国の少なからずの人間さえもが雷同しているのを長らく眺めてきたが、こういう人たちは他国の国益や特定のイデオロギーに容易に洗脳されしまう論理の未成熟な人たちなのであろう。哀れで情けないけれども傍迷惑なのだ。そもそも「日独同罪論」という議論はユダヤ人はもとより一般西欧諸国の人も決して許さないようなひどい考えであるということは「日本人が知らない最先端の世界史」(福井義高著、祥伝社、2016)の冒頭の部分に、馬鹿でも理解できるように書いてある。

戦争というものは異常で特別の状況であるので、人権の制限や個人の悲劇というものは相手国の人々に対してだけでなく、自国の国民にも強いる構造になっている。残虐な事案はどの交戦においても大なり小なり起こってしまうものだ。戦争自体が悲劇を生むのである。 

その後、ベトナム戦争などの局地戦争において(戦争の中では、当然、確率的に生じてくる)非人道的な行為に対して、一度も「戦争犯罪」などは適用されていない。当時の米国が日本だけに適用したかっただけなのだ。
そもそも、戦争中の兵士の現地人への犯罪行為は、兵士の所属している国の軍法会議においてのみ処罰される。これが当時でも今でも真実なのである。実際、大陸やインドシナに進駐した際に、何人もの日本兵が軍法会議で命を贖わさせられている。
 
 戦後、ほとんど主張されていないことで僕が示したいことがある。ずっと若い頃から思っていたことだ。終戦時に日本の責任ある指導者だった者は、日本の国民に対して明確で深い謝罪をしていないのではないか? 「戦勝国に対する戦争犯罪者」などといういい加減な言いがかりへの対応だけしてしまって、肝心の国民への謝罪が不十分過ぎた。
 どの戦争でも、「戦勝国が正義になる」というのが長い歴史上の真実なのである。国際連合をシンボルとする現在のレジームも「戦勝国だった者が正義」のレジームである。日本は今後もレジーム側の都合の良い時に敗戦国であることを喚起させられるのである。
 悲しいことには、日本にとってのこのレジームは第三次大戦が起こらなくては崩れないだろう。これを崩すには、第三次大戦が起こり、日本が少なくとも敗戦国の側に加わっていないことが必要条件である。多分、必要十分条件かもしれない。日本はその時には中立国であって戦勝国側に加わっていなかってもよいのかもしれない。こういう際どい議論が喚起されるほど、今のレジームは日本にとって理不尽なものなのである。
 しかし、このレジーム状況を現在に至るまでアクティブ化し続けて政治カードを切ってくるのは、世界広しといっても現実には中共と韓国の二国に際立っているということも事実なのである(北朝鮮は別枠として、ここの議論には入れていない)。この姿勢を続ける今の二国と仲良くすべきだという日本人については、生理的な心理機構に抗するほどイデオロギーの影響を受けていると判じることができ、平気で白を黒と言っている嘘つきともいえるし「裸の王様」現象を呈しているといえると思う。
 このカードを有効にし続けさせている最大の責任者は「自民党」である。日本国に対する責任政党の最重要の仕事をさぼっている。これが無自覚でないところが犯罪的であると思う。本当なら、左翼的教育を受けた比率が多い官僚や明らかに左翼思想のマスコミなどに正しい舵を切り替えさせる技量と意思があるべきだが、自民党議員の中にも戦後レジームの擦り込みを受けてしまっているのが増えてきているので見込みがないのである。こういう意味では我ら団塊の世代が一番悪いのではないだろうか。若者に期待せざるを得ないし、彼らこそ既に大手マスコミの欺瞞を見抜いているから、未来を期待したい。

 この号における結論的なことは、「負け戦さ」をしてしまったことについての国民への謝罪だけが必要であったということである。終戦時に日本の責任ある指導者だった者は、日本の国民に対して明確で深い謝罪をしていないのではないか? すなわち、強力な米国と開戦したという愚行についての謝罪であり、一歩譲ってもミッドウェイ海戦の辺りで「降参」しておかなかった愚行に対しての謝罪である。結果論でもあるが、判断を大いに誤ったということでもある。
 昔も今も、一国の政治の責任者はその国の国民に対してのみ道徳的責任を負っているわけで、事実として、他国の国民に対しては特に道徳的責任は負っていないのである。事実としてそうであるから、現在の中国でチベット人やウイグル人が共産党政府からの犯罪的な民族的迫害を受け続けていても、残念ながら他国は根本的には手出しできない現状になっているのである。それは、好戦的な中共が強引にチベット人やウイグル人の領域に侵攻して「ここは自分たちの領土である」と内外に宣言してしまって、(本当は認めてはいけない)既成事実を作ったからだ。結局は力ずくなのだ。一旦こうなってしまうと第三者の国が対処してあげようと思っも、それが難しい。「内政干渉」という問題になるからだ。つまり、良くも悪くも、国家は自国民に対してのみ責任を持つことを許されているというものである。

 日本は戦勝国に対しては胸を張ってもよかったが(戦犯なんてとんでもない概念だ)、自国民に対しては顔向けできなかったはずだ。ズルズルと敗戦の決断を先延ばしにしていって自国民の命を多数奪われ、国土を荒廃の極に至らしめた理由は、多くの国民のことというより別のことを守ろうとしたようであり、このことこそ検証して反省しなければならないのではないだろうか。


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