2020年2月20日木曜日

今回の新型コロナウイルス感染症についての考え方

 今年1月から始まった報道やネットの情報によって、新型コロナウイルス感染症(ここでは「新型風邪」としておく)についての動向が世界中の人々に知られるようになった。その詳細は、連日の上記情報に溢れかえっているので、ここでその詳細を再述する能力もない。先ずここでは、自分の感想を述べるための資料としての流れをフォローしてみる。
 実は、昨年12月に最初の感染事実が湖北省・武漢市で医師によって発見されたが、中国の当局筋(武漢市~中央政権)によって隠蔽され、また、その後も「人人の感染はない」というような中国当局筋の発表によって初動対応が遅れて感染が拡大していき、日本を含む諸外国への伝染も拡がっているということらしい。
 中国は他所の国であり、共産党の強権支配による全体主義~国家資本主義の国であるということが全てを物語っているので、我が国のマスコミや政府のように真面目を装ったコメントなどしても仕方がないというのが自分の感想だ。そういう状況で、日本の国や人々の対応は如何にということが僕の主な関心である。
 今現在の感想のまとめを先に述べると、経済活動への現実的な波及は別として、その疾患自体を考えると、日本の国でまだ「騒ぐようなものではない」という僕の現状認識がある。とはいっても、国際レベルの新しいウイルスによる感染症という厄介な疾病の発生であるから、政府や自治体筋の対応はよりレベルの高いものを適用ないし準備しておかなくてはならないだろう、しかも、どの対応を適用してもいろんな意見の識者がそれなりの同意や反論をし、それがマスコミやネットで好き放題に拡散するので、当局には厄介極まりないと思われる、それでも、当局は「前例踏襲」や「指示系統」というような官僚的で硬直的な対応に重点を置き過ぎず、実際的で僕の言う「意味論的」な工夫が実践できる精神的余裕を備えておかないといけないと思う。
 
 資料を調べると、最近のインフルエンザ感染に関連した死亡者数は米国で毎年3万人以上、独国でも1万人前後とのことだ。日本では2018~2019の一年間は以前より減少していて、インフルエンザ罹患数は約1千万人であった。関連死亡者数は約三千人らしい(取扱い条件に従った推定値だ)。直接計算値では日本での死亡率は0.03%ということになる。以前の猛烈な勢いの年には死亡者数1万人以上のこともあったらしい。死亡率こそ激甚とはいえないが、死亡者数全体としては被害が少ないともいえないものである。毎年のように多数の被害者を生み出すインフルエンザ疾患では今回の「新型風邪」のようには騒いではいない。それは、インフルエンザ感染症にはタミフルなどの有効な抗ウイルス剤があるからだけでもないと思われる。確かにこういう薬剤は安心度を増やすことはできるが、そういう薬剤がなかった時代でも、「インフルエンザの猛威」の年においても人々が各自用心してそれなりの対策をしたり、或いは全然用心しない人も結構多かったのが現実だったであったろう。ある程度の罹患や死亡者は毎年のように起こるので、年中行事的な諦め感とともにジタバタしない身の処し方が出来ていたのだと思われる。
 そして、不幸にして重症になってしまった方々は大変であるのだが、もう一度データーを見てみると、1億数千万人の人口のうちで一年間のインフルエンザ関連死亡は数千人である。これは少ない数字でもないが、日常生活している健常者においては、周囲にこのインフルエンザで死亡した人がそんないにいるものではないのが実感であり実態なのである。臨床医の僕自身の実感もそうなのである。
 一億数千万人の人口があるのだから、全国で毎日莫大な数の種々の原因による死者が出ているのである。それを一部だけ抽出してこれでもかと見せつけると間違ったメッセージをまき散らしていることになる。普通の風邪がきっかけのような場合でも毎日多くの人々が大小の病院などで亡くなっているのである。
 2002年の11月から2003年の7月にかけてのSARSの報告発生者数は世界32国で8千人くらいで、死亡者数は800人程度だった(この時は、結局日本には感染者がいなかったというのが最終報告らしい)。このSARS(重症急性呼吸器症候群)は重症肺炎の高いリスクがあると名称にも付いているくらい恐怖を与える疾患であった。報告に従うと死亡率は10%ということになる。

 今回の「新型風邪」はSARSに比較すると軽症が多いようである一方で、感染性はSARSよりもはるかに高いようだ。今後の経過の中でこの「新型風邪」による日本国における死亡者数はせいぜい10~100人以下の程度ではなかろうかと僕は予想している。もしそうならば、日本各地の普通生活している人にはまだまだ「騒ぐ」ようなものではないとして生活しておくのが賢明な態度だと僕は思う。(追記)1年以上経過した時点での公式報道の関連死亡者数は1万人を超えてしまった。ただ、実施は1千人ほどだという議論もある。ただ、僕のせいぜい100人以下という予想は外れだった(2021.07.16)。
 我が国の最近の年間の交通事故の死亡者数(約3千人)や自殺者数(約2万5千人)の頻度を考えると「騒ぐ」ようなものではないと思うべきだ。ただ、目に見えないうちに感染するという「感染症」一般の面倒さがあるのは確かだ。
 理屈をこねると、周りにどんどん感染していっても、たとえばその8割が無症候なり軽症であったとしたら、その人たちは一般にそれにより免疫が成立してしまうので(基本的にはその後このシーズン中には発病しないしウイルスもまき散らさないだろう)、経時的に総感染者数がうなぎのぼりに増えていっても、重症患者発生率はそんなにうなぎのぼりにはならないのである。4~5月中には今までの新型感染症のように収まるのではないだろうか。

 現時点での日本における普段の生活においては、「普通通り」の生活と準備で宜しいのではないかとお勧めしたい。インフルエンザによる死亡率においては他国に比べて日本はかなり低値であるのだが、これはいろいろ理由があるにしても、最大の理由は日本の国民の生活に貧富の差が極めて少なく、生活全般が衛生的であることに拠ると思わなければならないだろう。中国という国は貧富の差が激しく、我が国からは想像を絶する国民生活をしている人が多い。このことが、重症化率や死亡率の上昇に大きく寄与していると思うべきだろう。
 我が国における毎年のインフルエンザでも同じことで、低栄養者や高齢者や既にある程度の内科的持病を有している人には当然重症化の頻度が多くなる。中国の大都会である武漢市における多くの人民の生活はいかなるものかということを考えると、もし日本に感染がある程増加したとしても、同じような重症率のはずがないと僕は推定している。
 なお、2月20日の産経新聞の記事によると、その中国における罹患者の8割が軽症で、WHOが把握した致死率は2%とのことだった。参考としての最近の日本国内でのインフルエンザ感染に関わる死亡率は0.2%以下であると記事に付記してあった。

 横浜港に寄港・待機させられているクルーズ船内における感染防御態勢は実に不十分極まりないものだという意見がこの数日のネットやマスコミに明らかにされた。神戸大学医学部の感染学の専門家が数時間にわたって船内を観察した結果、そういう意見を明らかにした。その内容を詳しく載せているネット番組を読ませてもらったが、もしこのレポートが事実であれば、僕も同じような感想を持つ。具体的には、マスクのこと・防御服のこと・各防御レベルのゾーンのことなどにおいて、「具体的な本気度」が「適当過ぎる」ということだ。
 ところで、僕は、たまたまこの岩田健太郎先生の著作を数年前に3冊買って持っているが、そのうちの1冊は「感染症は実在しない」というタイトルの本である。何故買ったかというと、「怪しくて変わったタイトル」だから「怪しくて変わった考えの持ち主」だろうと思ったので、そのうちにどこが変わっているか読んでみようと思ったわけである。つまり、あのネットを読んだ限りは僕も同じような考えだが、岩田先生の意見は用心して読まないといけない点があるかもしれないと思っている。どの本もまだほとんど読んではいないが、僕も、「風邪症候群」に関わる書物をそのうちに書こうという気持ちになったので(僕も岩田先生とはまた違った変わった意見を披露することになるのかもしれない)、その時の参考のために買っておいたというわけだった。

 さて、街中のマスクのことであるが、この数年来、僕は常々街中でマスクをして歩く日本人が結構多いことに違和感を覚えている。西欧諸国からの観光客にもそういう感想が述べられている。事業所や店舗で対応する店員がそれがさも当たり前のようにマスクをしているのに遭遇すると不愉快に感じる。マナーとしてどうなのだと。マスクをしている理由を示してくれたらOKだが、そういう遣り取りの機会も普通はありはしない。
 僕は長年医師の業務をしているが、患者の前でマスクをすることは先ずはない。目の前の患者がインフルエンザであると診断した場合でも僕はマスクをしないで通してきた(僕の場合は幸い、実際に発病するという不都合がなかったのがこれを通してきた要因のひとつであったということで、自分のイデオロギーに固執したというものでもなかった。なお、シーズン前には、「一応」という程度の気持ちで、毎年予防接種を受けていた)。ところが、最近の患者は診察の際にマスクを外さない連中が多い。これはマナーに欠けているだけでなく、診察上適切とは言えない。事実を白状すると、あまりにもそういう患者が増えてきたので、必ずしも全員に「マスクを外してください」とお願いすることを実施していない。幾分、邪魔くさくなって(相手の嫌がることを言うのであるから面倒な気もするし)、黙認や迎合の基調が自分の中で少しづづ増えてきている。これに関しては、病院や診療所でウイルス感染症に感染するリスクが何某かあるという事実があり、世間で感染症の流行っている時期においてはマスク着用は大いに意味があることを否定するものではない。こういう時期には気軽には診察を受けに行かない方がよいという考えも成立するのである。

 さて、狭い建物の中ではいざ知らず、戸外の路上で吐いた呼気は一瞬にして雲のように散っていくのであり、通常は前方から歩いてくる人にそのまま吸入されることはないと思われる。実際の呼気が一瞬にして希釈されながら風に乗って周囲や特に上方に(呼気は暖かいので)消え去っていく画像を実際に確認する機会があったので、僕はそう言っているのである。厳密な無風状態のような事態はあまりないのだし、戸外ではそう状況ということなのである。
 僕に言わせると、街中でマスクをすることが妥当な場合は、喉を保護したい粘膜状況の時(アレルギーや風邪のためにその方が保護的である場合)、自分が咳を頻繁にするのでエチケットのために、のケースくらいしか思い浮かばない。健常であるのに常からマスクを好むような習慣は身体と精神を劣化させるであろう。口元が不細工なのでマスクをしているのかなと下らないことまでに考えが飛んでしまう。

 「簡単なマスクなどはウイルスは通過してしまうので意味がない」という意見には僕は必ずしも同意しない。簡単なマスクでも重要な飛沫感染(濃厚感染のもとだ)は避けることが出来るだろう。傍迷惑な人たちによるマスクの買い占めで街中の売店からマスクが消えた場合にも慌てることはない。本当に必要という状況では、自分たちでありあわせの布を用いて自己製のマスクを作ったらよい。何らかの布があればそれだけでも意味があると思う。
 逆に、いくらウイルス対応のマスクをしても、狭い部屋で感染したかもしれない人たちと面と面を突き合わせるような環境では心穏やかでおれるはずはない。すなわち、問題は建物内であり、特に狭い室内での感染リスクである。室内では逆に、呼気気流が拡散する画像ビデオによると、予想外の広がりをするものだということが判っている。特に病室などでは1日に何回か窓を開放して空気を入れ替えることが勧められることだ。
 今回の「新型風邪」において医療関係者に死亡者が散見されて痛ましい。本来は健康な人であっても、その人たちは過労状態が続いていて体力消耗があることが考えられ、しかも、濃厚感染のリスクが高いから、そういうことになるものと僕は考えている。ウイルスが10匹くらい入っても臨床上の感染は起こらないことは、エイズ感染について述べたところで僕は既に説明している。だから、飛沫感染や真近での呼気気流感染が特に感染リスクが高いのだろう。こういうことから、医療従事者が感染しやすいことと、マスクは安物のマスクでもしないよりした方が意味があるという結論になる。物事は、ゼロか百かというものではない。(参考)ヘルスコラムM(#24)「マスクや手洗いはやっぱり意味があります」

 クルーズ船の話に戻ると、要するにいくら広くても船という建築物の中に2週間も拘束することは本人たちにとって非常に問題だ。しかし、だからこういう考えは絶対にダメというのでもない。物事は「公共の福祉」と「個人の快適さ」とのせめぎあいの中で行政がいずれかの判断をしなければならないからだ。ただ、建物の中に拘束するのなら、安全域と感染域のゾーンの非連続性を可能な限り確保すべきなのに、素人のような対応をしていたらしい。
 加えて、「潜伏期間が14日なので14日間の拘束」と「必要な検査」を適宜しますというのも、「本気度」を感じさせない。実際はそうではないが、たとえ最初の日に全員のウイルス感染チェックをしたとしても、その時点でウイルス検査陰性であった人が拘束の10日目に船内感染したとすると、その人については発病しなくても24日目まで拘束しなければ論理上も実際上もいけないことになる。つまり、あの2週間拘束の方針は、船内では決して相互感染をさせないという「本気度」の対応がなければ成立しないのだ。物事を考える癖のある小学生でも判ることだ。そういうことを考えると14日間もの長い、かつ、緩い規制の拘束は、官僚的な「言い訳」的対応のようで、妥当ではなかったと僕は思う。
 比較的妥当なものとしては、自然の中の環境の良いホテルを借り切ったりして、日中などにはなるだけ戸外の素敵な自然の中で生活してもらえるようなことが現実的かなと思う。そして、各人のホテル内の廊下の移動については、ランク付けに応じて他の群とは交わらないように時間を決めて誘導し、必要なマスクテクニックをするというものかなと思うのである。どこかの新築開院前のホテルが、その利用を提供するとした記事をチラッとみたが、それはこういう意味で素晴らしいのではないかと僕は思った。 

 なお、WHO代表であるエチオピア人の事務局長は今回のことで、中国政府に終始甘すぎる対応をしており、中国の一帯一路政策で母国のエチオピアが中国から多額の資金投入されているので、それが原因か?という意見が湧き上がっている。僕は、このことは一般的には非常に考えられることだと思うほど、国連組織の判断がしばしば怪しいと思っている。しかし、事務局長の主張する「まだ世界的に広まったわけでもないのでWHOとしての規制は特に勧告しない」という意見は、そんなに外れた話ではないと僕は思っている。現時点では、各国が各自の判断で対応しておいてよろしいという現状認識なのだろう。当然、状況が進むと何らかの勧告をすることになるはずだが、最終的にはやはり各国の各自の対応となるのである。
 ところが、世界の社会的・経済的な影響の領域においては、世界の各企業や各団体は、自分たちに及んでくる当面の混乱とそれから由来する利益の損失のことを考慮して方針を自己決定するので、国家やWHOの方針とは違う行動をしようとするのは致し方がない面があり、しばしばそれは過剰な対応をしてしまい勝ちである。しかし、これを非難することもなかなか難しいわけである。根本的には、グローバル化が行き過ぎた結果、脆い一面が曝け出されたということだろう。グローバリズムからの徐々の脱却を始めるべきことを示している。

 ところで、中国はこの十年だけでも何回も国際的な感染症の発生源になっている。生物兵器研究の資料がラボから漏れ出したか否かは別にして、日本の企業や政治家・官僚は、「中国リスク」ということを繰り返しの感染源という点でも真剣に考えるべきだ。中国の実態は「危うい国家」なのである。中国が共産党の強権支配による全体主義~国家資本主義の国なのであるという現実から「金儲け主義」のために目を逸らしてはならない。実は中国は他の点ではもっともっと問題なのだ。我が国の政官財の指導的立場の人々とマスコミは目を覚まさないといけない。

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